どう決まった? 東京メトロの路線名 半数は公募 案には大手町線や外堀線 いまの何線?
千代田線以降は公募 集まった案とは
最初に公募制が取り入れられた千代田線は、路線名を職員からの募集(社内公募)で決定しています。当時の資料によると、約1400件、205種類もの応募があり、そのうち最多を占めたのが「千代田線」でした。
その理由は新御茶ノ水から国会議事堂前まで千代田区を貫通するように走ることから。なるほど、それまでの路線名とは異なる新鮮な発想です。次点で「大手町線」も挙げられていますが、大手町を経由する地下鉄は、この時点ですでに丸ノ内線、東西線とふたつも存在しており、分かりにくさは否めません。
また意外な案としては「南北線」というものもありました。いまの南北線を知っていると不思議に思えるかもしれませんが、西日暮里から日比谷まで都心を縦断する姿は、当時からすれば「南北線」を思わせたのかもしれません。
続く有楽町線では、初めて一般公募が行われました。応募総数は3万通以上。そのうち最多は「麹町線」でした。有楽町線は、初めて皇居の西側を通過して都心に向かう路線だっただけに、その経由地である「麹町」に注目が集まったのかもしれません。
ただ「有楽町線」と「有楽線」の応募数を足すと、1位の「麹町線」を上回りました。また同線は当時、銀座一丁目から新木場まで延伸が予定されており、有楽町が池袋~新木場間のほぼ中心になることから「有楽町線」に決まります。もし「麹町線」になっていたら、漢字で書くのが大変だったでしょう。そのほかには「桜田線」「外堀線」という案もありました。
続く半蔵門線でも一般公募が行われました。こちらは応募総数約7600件。1位が「半蔵門線」、2位が「青山線」でした。以下、「渋谷線」「大手町線」「九段線」などが続きます。
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