日中に走らぬ国鉄日中線 廃止直前の記録 4本目の南北縦貫線にはなれず…線路跡はいま

東北本線や常磐線に並ぶ、4本目の「南北縦貫線」になるはずだった

 日中線は1938(昭和13)年8月に開業しました。約46年間の営業で、寂しい最期となりました。しかし、この路線はもともと、山形県の米沢駅まで建設する構想がありました。1922(大正11)年に施行された「改正鉄道敷設法」によると「山形県米沢ヨリ福島県喜多方ニ至ル鉄道」と示されていました。

 東京と山形は当時から2020年現在に至るまで、国鉄(JR)東北本線と奥羽本線で結ばれています。しかし、両線は福島を経由する迂回ルートになっています。そこで、米沢と喜多方を南北に結び、会津若松から会津線、野岩線を経由して、栃木県の今市で日光線に接続するルートを、かつては想定していました。まとめて「野岩羽線(やがんうせん)」とも呼ばれていたようです。完成すれば、東北本線、常磐線、上越線に並ぶ、「4本目の南北縦貫ルート」になったでしょう。

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今市~米沢間の「野岩羽線」構想(国土地理院の地図を加工)

 野岩羽線を構成する路線のうち、会津線は国鉄会津線として開業し、JR東日本が継承した後に、第三セクターの会津鉄道となって存続しています。野岩線は、建設中に国鉄の赤字線問題が表面化したため工事を中止します。しかし、ほぼ完成していた区間を第三セクター鉄道(現・野岩鉄道)として開業しました。このとき、工事未着手だった日光線今市駅までのルートを放棄し、東武鉄道鬼怒川線に接続しました。

 日中線は第二次世界大戦の影響で工事が中断し、完成していた熱塩まで開業しました。しかし、戦後も工事は再開されませんでした。山岳地帯で難工事が予想されたうえに、鉱物資源がなく貨物輸送も期待されなかったようです。足踏みしているあいだにクルマが普及して、人々の移動は鉄道から離れていきました。

【写真】日中線の旧型客車「オハ35形」の車内と時刻表(再現)

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