戦後復興を支えた「トレーラーバス」なぜ消えたのか 小回り抜群 100人乗っても大丈夫!
運転席と客室が分離していたが故の悲劇
トレーラーバスは、当時の一般的なバスと比べて輸送力が約3倍もあったことから重宝され、国鉄バス以外にも、東京都や大阪、仙台、京都など主要都市の市交通局、さらには東急や小田急、京王、京浜急行、京阪、近鉄、西鉄などの鉄道系バス事業者まで軒並み採用されます。
こうして1948(昭和23)年頃には、日本全国でその姿を見られるまでになりました。一例を示すと、東京都交通局では「荻窪~東京駅」、東急は「雪ヶ谷~東京駅」「池上駅~東京駅」などで使用されており、各社とも混雑の激しい幹線に投入したことがうかがえます。
当時の話を紐解くと、トレーラーバスは巨体の割に小回りが利き(回転半径が小さい)、フルエアブレーキのおかげで案外扱いやすかったという声が残されています。また巻き込み事故を防ぐため左ハンドルとする配慮もなされていたとのことです。
こうして混乱期の救世主となったトレーラーバスですが、いわゆるトレーラー部分(客車)とトラクターヘッド部分(牽引車)が別体のため、運転は一般的なバスやトラックとは異なり特殊で、単体型バスの大型化が進むと次第に持て余されるようになりました。
さらに1950(昭和25)年、横須賀で起きたトレーラーバスの火災事故も暗い陰を落とします。これはトレーラーバスの客車内で火災事故が発生したものの、それに牽引車内の運転士が気付かず、文字通り火の車状態になっても、しばらく街中を走り続けてしまったのです。この事故によってトレーラーバスは安全性に疑問符がついたものの、それでも急増し続ける乗客を運ぶために必要とされ、1956(昭和31)年頃まで運用されていたといいます。
誕生から10年ほどで姿を消した日本のトレーラーバス。活動した期間が短かったため、記録もあまり残されていませんが、その姿は確実に日本の戦後復興のシンボルといえるものだったようです。
【了】
Writer: リタイ屋の梅(メカミリイラストレーター)
1967年生まれ。「昭和30~40年代の自衛隊と日本の民間航空」を中心に、ミリタリーと乗りもののイラスト解説同人誌を描き続ける。戦後日本史も研究中。
かつて伊豆箱根方面に富士見ランドと言う遊園地がありまして、そこには園内専用でウサギ形と新幹線形のトレーラーバスがありました。
ヘッドは日野4tベースのKL型で排ガス規制天下御免の時代でしたので客席は排ガスの通り道で時代を感じる乗り物でした。
こういう「忘れられた」乗り物を取り上げてくださるのは、うれしいことです。次は、トロリーバスを取材してください。
戦前戦中のバスか現在のものに比べていかに小さかったかということがわかりますね。
車両火災とは…車掌は運転手に停車を命じる手だては無かったのですかね。
1960年代までは東京の南西の郊外から東京駅を目指すバス路線がいくつもあったのですね。交通渋滞が息の根を止めたのか、地下鉄と私鉄との相互乗り入れが発展的に解消したのか…
画像2枚目、ラッピングバスのはしりですね。
南アフリカでしたか、トレーラーバスが現役で走ってる映像を見たことがあります。
重車輌用トレーラーの上に架装したように、中央部が下がってる外観でした。