使いみち超マルチ! イタリア戦闘機MC.200の知られざる奮闘inロシア ただし激烈に寒かった…

戦果を挙げ続けた北の大地のイタリア軍

 このように、北の大地ロシアでソ連軍機を相手に戦っていたMC.200型ですが、実は大きな欠点がありました。それはパイロット達の要望により、試作機にはあった密閉式風防を量産機では廃止して開放式に“退化”していた点でした。これは灼熱の北アフリカ戦線では好都合でしたが、冬には上空気温がマイナス数十度に達するロシア戦線では致命的でした。

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1941年9月、クリヴォイ・ログ基地における第22独立戦闘航空群第369飛行隊所属のMC.200型、ジュゼッペ・ビロン少尉機。機体には同少尉が考案した案山子(かかし)マークが見える(吉川和篤作画)。

 そうしたなか、1941(昭和16)年12月25日、第359飛行隊はハリコフ北東における地上進撃部隊(黒シャツ連隊)への支援攻撃で敵機5機を撃墜、さらに28日にはチモフェイエフカとポルスカヤ地区でI-16型戦闘機6機を含む9機を撃墜して味方の損失はゼロという戦果を挙げています。ただ、その後は冬期の悪天候が続いたことで約1か月に渡り出撃は中止されました。

 それでも出撃再開後の1942(昭和17)年2月4日と5日のカルナイ・リマン基地への地上攻撃では、地上にいた敵機21機を破壊、さらに数の上で10対1にもなる空中戦でも、5機撃墜の勝利を手にしています。ちなみに、後に総撃墜数8機のエースとなり、第369飛行隊のマークを考案したジュゼッペ・ビロン少尉は、この時期に4機撃墜を記録するほどでした。

 しかし、前年からの戦闘で7名以上のパイロットを失っていた戦闘機隊の消耗はピークに達します。そして5月には新たにMC.200型18機を持って到着した第21独立戦闘航空群に任務を引き継ぎ、第22独立戦闘航空群は機材を残して本国に帰還したのでした。

 どうしても第2次世界大戦のイタリア軍というと、地中海や北アフリカ戦線のイメージが強いものです。それら主戦場と比べると、ロシア戦線は小規模だったものの、イタリア戦闘機隊は圧倒的な機数差と苛酷な自然条件の中、旧式化していたMC.200型戦闘機で善戦し、少なくない戦果を挙げていたといえるのではないでしょうか。

【了】

【写真】草原の飛行場に並ぶ複数のイタリア空軍MC.200

Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)

1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。

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