実は日本の外交的勝利!? 史上初の軍縮条約「ワシントン海軍軍縮条約」で得た“実利”

11月11日はワシントン海軍軍縮条約の交渉が始まった日。1923年に発効した本条約は、米英日仏伊5か国がどの程度の海軍力を保持できるか決めたものですが、軍艦の性能や保有量などで多くの制限があり、のちの歴史に大きな影響を与えました。

世界初の軍縮条約 その中身は?

 1918(大正7)年に第1次世界大戦が終了した後も、戦勝国の日本とアメリカを中心に、海軍力増強を目的とした建艦競争は続きました。たとえば旧日本海軍の八八艦隊計画は、国家予算の半分を軍艦の建造・維持費に費やすもので、日本経済に著しい負担をかけていました。こうした状況は他国も大同小異であり、アメリカのハーディング大統領(当時)の提案で、軍縮条約が結ばれることになったのです。
 
 こうして1923(大正12)年11月11日に発効したワシントン海軍軍縮条約は、軍艦の保有量・新規建造・改装に厳しい制限を有していました。これは当時の日本では不平等条約とする意見も見られましたが、詳しく中身を見ると、そうでもないともいえます。

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1944年10月、ブルネイで出撃準備中の長門。後方に戦艦「大和」「武蔵」の姿も見える(画像:アメリカ公文書館)。

 建造中の主力艦(戦艦と巡洋戦艦のこと)は全て廃艦となり、主力艦および航空母艦(空母)については、総保有量比率をイギリスとアメリカが5に対して、日本は3、フランスとイタリアは1.75(後に1.69)と定められました。

 この保有量は、のちに、アメリカ5、日本3、つまり「対米6割比率」では「国防上成り立たない。対米7割を確保すべきだった」として、日本国内で大きな政治問題となります。

 とはいえ、条約締結時において建造中の主力艦が全て完成した後の保有量は、イギリス34隻、アメリカ35隻、日本15隻、おおむね4:4:2ですから、日本は対英米5割に止まります。つまり、対米6割確保は、むしろ日本の外交的勝利と言えるでしょう。

【写真】長門型戦艦と並び称される米英の戦艦たち

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