「アメリカ半端ねぇ」東京湾のB-29残骸に見る隠れた先進性 いかに技術のカタマリだったか
銃弾からもわかる巨人機のハイテク武装
こうしたタイヤ1本からも当時、アメリカが保有していた世界屈指の先進テクノロジーを垣間見ることができますが、同じことは主脚に固着していた弾薬からもうかがうことが可能です。
発見された弾頭や薬莢は、機体に装備された12挺のブローニング12.7mm M2機関銃に使用されたものです。この機関銃は、遠隔操作で動く上下4か所の銃塔と尾部銃座に各2~4挺ずつ搭載されていました。こうした銃塔の遠隔操作方式は、胴体の搭乗員室が与圧式で仕切られていたことから開発・採用されたもので、それまでの機銃手が直接乗り込む、有人方式のものとは一線を画していました。
この無人の機銃塔は、上面と左右側面の半球窓に3人の機銃手が付いて照準を行いますが、それとは別に機体前方に爆撃手が兼任したもう1か所の照準装置が設置されていました。そして射撃システムには、ゼネラル・エレクトリック社製のアナログ・コンピューターを使用した集中火器管制装置を採用しており、上面に座る機銃手が1人で指揮することが可能な一方、状況に応じて各機銃手が個々に役割を兼任することも可能な高性能なものでした。
このように、わずかな遺物からも先進テクノロジーの集合体であったことがうかがえるB-29爆撃機の製造費は、当時でも63万ドルに達するもので、同じ4発重爆撃機であるB-17「フライングフォートレス」の製造費のおよそ3.5倍にもなりました。
それほど高価であったB-29ですが、損失は実に485機(戦死3041名)にもおよんでいます。これは太平洋戦争終結までに生産された同機約2500機のうち、実に20%近くを占める数字です。この数は事故で失われた機数を除いても、旧日本陸海軍機の迎撃や、高射砲射撃による防空体制が決して無力ではなかったといえるでしょう。
こうして、徐々に本来の姿を見せた戦争の遺物は現在、那須の戦争博物館に移送が完了しており、すでに慰霊式典も終えて3月からの一般公開(木曜閉館)に向けて準備も最終段階となっています。
新型コロナの状況にも左右されるでしょうが、今後、同館を訪ねた際には、この主脚とタイヤの展示を見ることで、当時のアメリカ航空機産業に思いを巡らしてみてはどうでしょうか。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
まだ、関西在住時に、機械部品を制作していた社長のエピソードとして、初代社長(明治生まれ・故人)の体験談を聞かされたことがありました。初代社長が、戦時中、陸海軍の戦闘機向けにビスや、ギヤ類を軍需工場で、製作していた時代、大阪大空襲の時に撃墜されたB29やグラマン艦載機などの残骸を調べ、機体を構成している部品のナット、ビス、シャフト、その他エンジンの構成部品の精密な仕上がり具合と、見たこともない研磨の仕上がり具合などを目の当たりにして、アメリカは、こんな飛行機を構成する部品一つにまで、日本とは比較にならないほど精密正確にできているのか?と、、これじゃあ、日本がアメリカに勝てるわけがないなあと、思ったということです。