JR中央線「都心の絶景区間」に挟まる“残念な車窓”のナゼ 水辺から離れる水道橋~飯田橋

舟運の要衝へ 理由は2つ

 飯田橋~水道橋間で中央線は日本橋川という小さな川を渡ります。実はこの日本橋川が、一部川筋の付け替えはあるもののかつての神田川で、ここから東側、御茶ノ水を経て隅田川に注ぐ現在の神田川は、江戸時代第2代将軍秀忠の時に開削されたものです。その目的は、江戸城下を洪水から守るためでした。

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飯田橋~水道橋間。神田川と線路の間に連なるビルの部分が昭和戦前頃まで河岸があった場所(2022年3月、内田宗治撮影)。

 御茶ノ水駅ホームの眼下には神田川が流れていますが、江戸時代初期はここに川も谷もなく、台地が続く土地でした。ここで丸ノ内線が地上に顔を出すのも、掘り込まれた低い場所だからです。

 御茶ノ水付近の神田川開削により、物資の集散などで賑わっていた隅田川の両国付近と飯田橋付近が直結することになりました。

 飯田橋付近から市ケ谷、四ツ谷方面へ続くのは外濠なので、途中何か所か土手で区切られ、船が航行できません。また御茶ノ水方面は急な崖もある谷なので河岸には不向きです。河岸がないので、これらの区間では川や濠沿いに線路を敷くことができました。

 また、江戸時代には埋め立てられていた神田川と日本橋川の分岐地点付近は、特に明治時代中期に開削され、日本橋川と神田川(下流部)、隅田川がつながり、飯田橋付近はいわば三角形の舟運水路の頂点といった位置付けにもなりました。

 飯田橋が舟運の要衝となった第2の理由は、この付近までは満潮時、江戸湾の海水がさかのぼるので、豊かな水量が確保され、船が難なく航行できたためです。

 都心部の中央線は、途中に存在する河岸をよけながらも、江戸時代に造られた外濠と神田川沿いにS字カーブを描いて進むことにより、町中の人家密集地をうまく避けてルートが設定されました。その分、用地買収には手こずらなかったのではないでしょうか。その経緯は、変化に富む車窓からうかがえるのです。

【了】

※一部追記しました(11月1日14時50分)。

【写真】船着き場だった昭和初期頃の飯田橋駅付近

Writer: 内田宗治(フリーライター)

フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。

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コメント

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1件のコメント

  1. かれこれ20年は乗ってる区間だが気にしたこともなかったな
    よくこんなしょーもないネタで記事が書けるもんだ
    飯田橋辺りが川沿いでないのは、かつての旧飯田町ターミナルを作るためではないの?