里帰り「九五式軽戦車」の実像 なぜ旧陸軍は「軽」戦車を使い続けたのか
九五式軽戦車は「強くて速くて良い戦車」?
ボービントン戦車博物館で走行展示した九五式軽戦車は、秘匿名称「ハ号」だったことから「HA-GO」と呼ばれ、戦車発祥の地イギリスでも人気者でした。
日本陸軍の戦車といえば弱かったと、一般的にはイメージされるかもしれません。確かに、同時代の他国戦車と並ぶと小柄なことを実感します。ところが九五式軽戦車は、中国戦線では「強くて速くて良い戦車」などといわれていました。70年以上を経ても空冷ディーゼルエンジン音を響かせながら軽やかに走り回る九五式軽戦車は、「強い」かどうかはともかく「速い」のは間違いないと感じます。
21世紀の現在でも、戦車を一から企画設計して量産する能力のある国は両手に収まる数しかありません。日本は戦前から戦車大国でした。
戦時中、1939(昭和14)年から1945(昭和20)年における日本の戦車生産台数は約5000台で、ソ連、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスに次ぐ6番目の数です。おもな車種の生産台数内訳は九五式軽戦車が2378台、九七式中戦車が2123台で、この2車種が日本陸軍戦車の主力となり終戦まで戦うこととなったのです。
九五式軽戦車が採用された1935(昭和10)年当時、同戦車の重さ7t、主砲37mm、車体前面装甲厚12mmという諸元は、世界的に見ても軽戦車の標準的スペックでしたので、対戦車火器や戦車をほとんど持たない中国軍相手であれば「強い」との印象もあながち間違いとはいえません。むしろ第2次世界大戦開戦以降の欧米における戦車の発達が異常なほどなのであって、日本の国力では追いつけなかったというのが実態ともいえます。
日本陸軍は1935(昭和10)年採用の九五式に始まり、1939(昭和14)年には九八式、1942(昭和17)年に二式、1944(昭和19)年に四式と、次々に軽戦車を開発しました。これらは新車というより前車の改修やグレードアップといった仕様なのですが、敗戦間際の1945(昭和20)年になっても重量9tの五式を試作するなど、いかなる戦況になろうと最後まで開発の手を止めることはなかったようです。
確かこの戦車(軽戦車の)配備については、戦車選定委員会での議事録が残っていて出版もされていたような、予算は決まっているので用兵側は配備数を多くしたい、運用側は装甲厚の大きな戦車が欲しい(重装甲なので1両あたりの価格も高くなり数は揃えられない)という議論になり運用側は戦車隊という組織がまだ陸軍内では若い組織であることもあり、委員会で意見が言えるのが佐官クラス、用兵側は将官クラスが委員会に出ていて用兵側の意見が通ったという話もある、戦後の61式については、貨車運搬可能な重量、大きさ(高さ、幅)でないといけないという制約が先にあり、高さも貨車に積んだ状態で国内のトンネルを通過できる高さにしないといけないということで重量、高さ共にあのスペックになったようですね。軽戦車の運用で港湾のクレーンの荷重が最大15tだからという話も聞くのですが、それは後付の言い訳に聞こえてきます。なぜならアメリカ軍のM4戦車は太平洋戦域にも投入されていますからね。戦後の東南アジア諸国や日本でも自衛隊で使用されていた戦車です。