里帰り「九五式軽戦車」の実像 なぜ旧陸軍は「軽」戦車を使い続けたのか

なぜ旧陸軍は「軽」戦車を作り続けたのか

 日本陸軍は中国大陸を主戦場と見なしてきました。広大な中国戦線ではトラックを使った乗車機動も多用され、そうしたなか九五式の前に配備されていた八九式中戦車は最高時速25kmで、自動車化部隊に追随できませんでした。

 このような事情からも「装甲化された騎兵」のニーズは必然でした。速度重視で開発された九五式軽戦車は時速40kmを発揮してトラックにも追従でき、故障も少なかったので重宝されました。

 しかし太平洋戦線では、緒戦こそマレー半島進撃作戦で速力を発揮した「日本版電撃戦」を演じましたが、以降は苦戦を強いられることになります。それでも軽戦車の開発が続けられたのは、限られた資源を艦船や航空機に振り向けなければならなかったという台所事情のほかにも、「強くて速くて」に追加して「軽い」ことも重要だったからでした。輸送船の荷役能力と、本土決戦を想定し国内の貧弱な道路や橋梁でも耐えうる重さに留めなければならないといった、インフラ上の事情があったのです。

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九八式軽戦車。九五式と性能差がさほどなく少数生産に留まった。(画像:Imperial Japanese Army、Public domain、via Wikimedia Commons)。

 地方にまで舗装道路が整備されている現代の視点では想像しにくいのですが、高速道路を含む道路網が整備されたのは最近のことです。国土交通省のWEBサイトによると1970(昭和45)年に簡易舗装を含めた全国の道路舗装率は、一般国道で78.6%、一般道路では約15.0%にすぎませんでした。ちょっと裏道に入れば砂利道、砂ぼこり、水たまりは当たり前だったのです。ちなみに2020年には一般国道で99.5%、一般道路が約82.5%にまでなっています。

 戦後最初の国産戦車、のちの61式戦車でも、当時流行していた軽装甲思想とまだ貧弱だった道路インフラを考慮して、構想段階では重さ25tに収めようとしていました。そして2022年現在の10式戦車でも、他国の同世代戦車より約10tは軽いです。

 戦車の戦闘力は、単純なカタログスペックではなく、使われる環境に適合しなければ性能を発揮できません。太平洋戦争末期の本土決戦にタイガーIなどを持ち込んだとしても、ほとんど役に立たなかったでしょう。

【了】

【画像】幻の「五式軽戦車」ほか旧陸軍の軽戦車をもっと見る

Writer: 月刊PANZER編集部

1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。

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コメント

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1件のコメント

  1. 確かこの戦車(軽戦車の)配備については、戦車選定委員会での議事録が残っていて出版もされていたような、予算は決まっているので用兵側は配備数を多くしたい、運用側は装甲厚の大きな戦車が欲しい(重装甲なので1両あたりの価格も高くなり数は揃えられない)という議論になり運用側は戦車隊という組織がまだ陸軍内では若い組織であることもあり、委員会で意見が言えるのが佐官クラス、用兵側は将官クラスが委員会に出ていて用兵側の意見が通ったという話もある、戦後の61式については、貨車運搬可能な重量、大きさ(高さ、幅)でないといけないという制約が先にあり、高さも貨車に積んだ状態で国内のトンネルを通過できる高さにしないといけないということで重量、高さ共にあのスペックになったようですね。軽戦車の運用で港湾のクレーンの荷重が最大15tだからという話も聞くのですが、それは後付の言い訳に聞こえてきます。なぜならアメリカ軍のM4戦車は太平洋戦域にも投入されていますからね。戦後の東南アジア諸国や日本でも自衛隊で使用されていた戦車です。