九州の田園に存在した「東洋一の飛行場」とは 戦前に国際旅客便も 面影がほぼなくなってしまったワケ

東洋一の飛行場とその後

 こうして太平洋戦争前には大刀洗陸軍飛行場は東洋一の規模となり、駐屯する飛行第四連隊には日本陸軍初の主翼が1枚構造である低翼単葉の九七式戦闘機が配備されて、主力戦闘機として日中戦争や太平洋戦争の初期まで多用されました。

 また、1940(昭和15)年2月には航空機や部品の製作、修理を行う大刀洗航空支廠(のちに大刀洗航空廠)が設立されているほか、航空機製作所も飛行場の北側に開設されています。さらに同年9月には飛行第四戦隊(飛行第四連隊の改名)が熊本県の菊池飛行場に移駐したことで、その替わりとして10月には大刀洗陸軍飛行学校が創設され、東京陸軍航空学校を卒業した若年パイロットたちに向け激しい訓練が行われます。

 このような形で航空教育の中枢も担うようになったことで、京都陸軍飛行場から鹿児島県の知覧陸軍飛行場までの西日本の各飛行場や朝鮮半島の飛行場に、大刀洗陸軍飛行学校の分教所がいくつも開設されていきました。

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飛行中の九七式戦闘機乙型。低翼単葉の近代的な設計であったが固定脚式で、この後の一式戦闘機「隼」から引込み脚式となった(吉川和篤所蔵)。

 太平洋戦争が始まると、大刀洗は毎年のように変革や拡充を繰り返し、1944(昭和19)年には、滑走路2本を有した北飛行場も完成しました。ただ、その一方で戦争末期には、特別攻撃隊(特攻隊)の中継基地としても多用されるようになり、1945(昭和20)年1月には大刀洗飛行学校でも特攻隊が編成され、九八式直協偵察機36機が宮崎県の新田原飛行場から出撃しています。

 また、規模の大きな飛行場としてアメリカ軍の攻撃目標にも選定され、同年3月にはB-29爆撃機による空襲を受け、付近の住民を巻き込んだ甚大な被害を出しています。

 戦後、日本陸軍が解体されると、大刀洗の飛行場と航空廠の広大な土地は民間へと払い下げられて農地やビール工場などの工業用地に転用されてしまいました。そのため、東洋一の飛行場を偲ぶ術もかなり難しくなっています。

 それでも、福岡県朝倉郡の筑前町立「大刀洗平和記念館」には、博多湾の埋め立て工事で発見された世界で唯一現存する九七式戦闘機が展示されているほか、博物館の周囲には門柱跡や慰霊碑、掩体壕(えんたいごう)や監的壕(かんてきごう)なども点在しています。また、前出の甘木鉄道甘木線のほか、西鉄甘木線も運行しているので、列車の旅とともに、こうした戦争遺構を見学して、「東洋一」といわれた往時の飛行場に思いを馳せてみてもよいのではないでしょうか。

【了】

【屋根上のジェット機はナニ?】大刀洗平和記念館周辺の旧軍遺構ほか

Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)

1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。

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