九州の田園に存在した「東洋一の飛行場」とは 戦前に国際旅客便も 面影がほぼなくなってしまったワケ
民間航空会社も使用した大刀洗
ただ、大刀洗がある場所は大都市、福岡や小倉、玄関口の門司などから離れた内陸部です。このような地に飛行場の開設が決まった理由としては、朝鮮半島を経由して中国大陸に進出するための航空隊が用いる中継基地として、九州北部という地理的な条件を満たすと共に筑紫平野の東側の飛行場に適した平坦で広いエリアがあったからでした。また内陸部に位置していたため、敵艦船からの艦砲射撃の影響も受けにくいというメリットも有していました。
九州における航空の中心地となった大刀洗飛行場はその後も拡充を続けます。加えて彼の地で産声を上げた航空第四大隊は飛行第四大隊への改編を経て、1925(大正14)年4月には飛行第四連隊へと昇格します。また、この時期には台湾の飛行第八連隊も同地に駐屯していたため、大刀洗陸軍飛行場は定員1500名におよぶ日本最大の航空基地となりました。そのため、新型機もいち早く配備されるようになり、フランスのニューポール29C-1複葉戦闘機を国産化した甲式4型戦闘機や、同じくフランスのサルムソン2A2複葉機を国産化した乙式1型偵察機などが配置されています。
それとは別に、1929(昭和4)年4月には民間の日本航空輸送が大刀洗飛行場の一部で運航を開始し、陸軍から払い下げられたサルムソン2A2複葉機で郵便や貨物輸送を行いました。これは西日本における民間航空の発祥となります。さらに旅客輸送や遊覧飛行なども行われ、高翼単葉で乗客6名の米フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機も離着陸するようになりました。運行ルートは、国内の東京~大阪~大刀洗や海外の大刀洗~釜山~京城(現ソウル)~大連で、このように大刀洗は東京や大阪といった国内の大都市と、朝鮮半島や中国大陸とを結ぶ一大中継地点へと昇格していったのです。
加えて1932(昭和7)年7月には満州航空も営業をスタート、日本航空輸送から乗り継ぎ便で大刀洗から満州のチチハルまでの旅客便が開設されました。このように大刀洗飛行場での日本航空輸送による民間航空の利用は続きますが、満州事変が始まり日中戦争が迫った1936(昭和11)年に同社は福岡県雁ノ巣に新設された福岡第一飛行場に移ったことで、再び大刀洗は陸軍航空隊専用の飛行場に戻っています。
また、飛行場の拡充に伴って同地へ物資や人員を輸送する目的で鉄道引込み線も計画され、1939(昭和14)年4月に国鉄甘木線が開業しました。これは現在でも存続しており、佐賀県の基山駅から大刀洗を経て甘木駅へと通じる甘木鉄道甘木線となっています。
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