戦艦「大和」、敵艦に“主砲撃て!” 日米初のレーダー砲撃戦、 結果は?
アメリカ側から見た栗田艦隊の動き
なお、日本栗田艦隊が砲撃を開始する直前にタフィ3の護衛空母から発進した艦載機も攻撃に加わったことで、栗田艦隊の足並みが乱れます。東へ逃走するタフィ3を栗田艦隊が追撃すると、高速の戦艦「金剛」が別行動を取り、単独で追撃します。戦艦「大和」はアメリカ駆逐艦が発射した魚雷に挟まれて並走する形になり、タフィ3との距離が大きく離れてしまいました。
その結果、栗田艦隊はいくつかのグループに分かれてタフィ3を追撃しています。
「大和」の艦隊司令部では追撃部隊と通信の不備もあり、状況をつかめないためいったん攻撃を中止し、集合を命じています。ただし、その後はアメリカ軍機に阻まれ、再び攻撃することはできませんでした。これをタフィ3では日本艦隊が突如として攻撃をやめて去って行ったことから、自分たちの奮戦で撃破したと判断しています。
ところで、栗田艦隊がタフィ3を壊滅できなかった理由の一つとして、徹甲弾を使用したため装甲のない護衛空母や駆逐艦の船体を突き抜けたからだというものがあります。これはタフィ3の戦闘報告書からも確認できますが、実際は米艦艇の艦内で爆発する砲弾もあり、栗田艦隊が徹甲弾だけでなく通常弾も使用していたことは明らかです。
また、船体を突き抜けた砲弾により艦内の電路や通信設備、機関室が損傷し、レーダー射撃ができなくなり、艦の速力も低下していった様子が戦闘報告書に残されています。
太平洋戦争を語るとき、しばしば日米のレーダー技術の差が取り上げられます。レーダーは日米とも1942(昭和17)年から海戦で使用を始めたばかりでした。ゆえに、光学機器のように夜や天候、煙幕などに左右されない利点こそあるものの、当時のレーダーはあくまで、砲弾自体を管制するものではなかったのです。
そこから鑑みるに、当時のレーダーはマリアナ沖海戦(1944年6月中旬)のように、敵機の接近を探知し待ち伏せをするには有効でしたが、実際のところは日米両軍とも、レーダーを使ったからといって砲撃戦の精度が飛躍的に向上したわけではなかったことが、サマール沖海戦の顛末からも見て取れます。日米ともにレーダー射撃も万能ではなかったといえるでしょう。
【了】
Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)
軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。
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