知られざる「日本海軍のオーストラリア本土攻撃」奇襲機の残骸が物語る捕虜のリアル
いまから80年前の1942年2月19日、旧海軍空母部隊によるオーストラリア・ダーウィン空襲が実施されました。その歴史を今に伝えるため、空襲に参加した零戦の残骸が博物館に展示されています。
オーストラリア史上最大の外国軍による攻撃
いまから80年あまり前の1942年(昭和17)年2月19日、オーストラリアのダーウィンに対して旧日本海軍が空襲を行いました。ダーウィン(ポート・ダーウィン)はオーストラリアのノーザンテリトリー(北部準州)にある都市で、第2次世界大戦(太平洋戦争)中は軍事拠点として海軍基地と飛行場が置かれていました。
その関係から、ダーウィン国際空港の近隣にある「ダーウィン航空博物館」には、この空襲に参加した零式艦上戦闘機(零戦)二一型の残骸が展示されています。筆者は取材でダーウィンを訪れた際にこの博物館へ立ち寄り、零戦二一型の残骸を見てきました。そこで、改めてダーウィン空襲の概要と、この残骸の出自について振り返ってみましょう。
2023年現在、ダーウィン空襲はオーストラリア史上最大規模の外国勢力による攻撃といわれています。攻撃を加えたのは旧日本海軍の空母艦載機約190機。これだけの航空部隊が2月19日の早朝、オーストラリア沖に展開した旧日本海軍の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻から出撃したのです。
これら艦載機は約30分にわたってダーウィン周辺の港湾施設、飛行場、市街地の軍事施設を攻撃しました。加えて、その後には陸上基地を飛び立った96式陸上攻撃機および一式陸上攻撃機、あわせて54機が飛来し、第二波として攻撃。最終的にオーストラリア側はこの日だけで、艦艇11隻が沈没、28隻が損傷。航空機も30機以上が地上や空中で撃破(撃墜)されています。結果、戦死者は236名、負傷者は約400名にもおよびました。
なぜ、このときダーウィンが攻撃を受けたのかというと、当時の日本軍はオランダ領東インド(現在のインドネシア)のジャワ島へ侵攻作戦を行っており、それら地域から距離が近いポート・ダーウィンを軍事的な脅威とみなしたからです。
この日の空襲は日本がオーストラリア本土に対して行った初めての爆撃でしたが、その後も1943(昭和18)年までのあいだに100回以上の空襲が行われています。
写真の零戦は二号機銃を積んでますね。21型にも搭載されたことがわかるよい写真です。