「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【前編】 駅前は長らく一面の田んぼだった
開発の本命は新横浜のさらに北側だった
この頃、横浜市が直面していたのは人口問題でした。人口は1965年の223.8万人から、1975年には250万人以上(実際は277万人)、1985(昭和60)年には300~350万人(同322万人)に達する見通しであり、無秩序なスプロール化を防ぐために計画的な都市計画が求められたのです。
その目玉が新横浜からさらに北の丘陵部「港北ニュータウン」整備でした。横浜市は1967(昭和42)年に4路線からなる市営地下鉄計画を決定し、そのうち「3号線」を港北ニュータウンと新横浜駅、横浜駅、関内地区、本牧地区を直結する路線と位置づけました。新横浜は経由地のひとつにすぎず、本命はニュータウンと都心の整備だったのです。
その後、新横浜は時代に翻弄されていきます。先述のように将来的な副都心化が想定されていたものの、区画整理の完了はオイルショック後の1975年。翌年に新横浜停車の「ひかり」2本が設定されるなどの変化はありつつも、経済の落ち込みで開発計画はストップしてしまいました。
この閉塞感を打破したのが1981(昭和56)年に策定された横浜市総合計画「よこはま21世紀プラン」です。この中で横浜市は、新幹線ネットワークの一部に位置づけられる新横浜の特性を活かして「都心臨海部を中心とする都心部に次ぐ第二の都心として都心機能を育成していく必要がある」とし、副都心ではなく“第二の都心”として整備していく姿勢を示したのです。
そのため「都心機能を立地させる場所として、開発の既成・誘導」を行い、「商業・業務等都心機能の集積」を図るため、「鉄道、街路、駅前広場等の交通施設の整備をすすめる」ことでターミナル機能を強化するとともに、都心機能集積の効果を高めるため「相模鉄道線と新横浜と羽田を結ぶ鉄道について、隣接都市等と調整をはかりながら、検討をすすめる」としました。
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