「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【前編】 駅前は長らく一面の田んぼだった
トリガーは東横線の混雑
実は相鉄の都心乗り入れ構想は古く、横浜・川崎周辺の鉄道整備を答申した1966(昭和41)年の都市交通審議会答申第9号は南武線、横浜線、相鉄などを利用して東京に向かう旅客を吸収し、東海道線の混雑を緩和するために「茅ケ崎付近から二俣川、勝田(編注:港北ニュータウンの地名)付近を経て東京に至る路線」の検討を促しました。
また川崎市は1973(昭和48)年の「川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書」の中で、新横浜から川崎を経由して羽田空港に乗り入れる「拠点連絡鉄道」に言及しています。
横浜市の計画はこれら検討をふまえたもので、神奈川県と横浜市、川崎市は1983(昭和58)年、「相模鉄道から横浜第二の都心として育成が図られている新幹線新横浜駅地区、業務、広域商業機能の集積が図られている川崎駅周辺地区を直結し、空の玄関口である羽田空港に至り東京都心方面へ乗り入れる」ルート素案をまとめ、運輸政策審議会に要望しました。
ここに東急が1970年代以降、輸送力増強が限界を迎えつつあった東横線の抜本的改善策として検討を進めてきた、目蒲線の改良と東横線多摩川園~大倉山間の複々線化が加わります。1985年7月の運輸政策審議会答申第7号で、二俣川から新横浜、大倉山を経由して東横線直通、一方は川崎方面に接続する「神奈川東部方面線」が登場。新横浜線の原型がほぼ出来上がりました。
加えて同年は3月14日に行われたダイヤ改正で、新横浜駅に停車する「ひかり」が6本から51本に大増便され、同時に地下鉄3号線が横浜~新横浜間延伸開業しました。新たな玄関口としての地位を築く最初の一歩とも言える年でした。
こうして見ていくと、新幹線開通から20年程度で地下鉄が開通し、新横浜の開発方針と新横浜線につながる鉄道構想が具体化したことが分かります。全く新しい街ですから、この20年は長いとはいえないでしょう。問題はその後、なぜ40年もの時間を要することになったのか。これについては後編でお伝えいたします。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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