【鉄道のある風景今昔】みかんを運んだ私鉄「有田鉄道」 21世紀まで“よくぞ”生き残った 末期は運転士1名!?

現在の和歌山県有田川町に、約20年前まで有田鉄道が通っていました。沿線のみかんなどを運ぶ貨物輸送が主でしたが、モータリゼーションの波に押され非常に厳しい経営を強いられていました。末期には、沿線の学校が休みの日には運休という有様でした。

この記事の目次

・沿線のみかん輸送など貨物営業が主体だった
・ひとつの節目 キハ58形の譲受
・2つ目の節目 レールバスの導入

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沿線のみかん輸送など貨物営業が主体だった

 有田鉄道は1913(大正2)年2月、沿線で収穫されたみかんや木材などを積出港であった湯浅港まで運搬する目的で設立された和歌山県内の鉄道です。1915(大正4)年5月に海岸(湯浅港)~下津野間、1916(大正5)年7月1日に金屋口までの全線が開業しました。

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有田鉄道には、樽見線(のちの樽見鉄道)で最後の活躍をしていたキハ07形の残党3両のうち2両が譲渡された。キハ07 206。1974.11 藤並(所蔵:網谷忠雄)。

 それから10年後の1926(大正15)年8月には、鉄道省の紀勢西線(現・JR紀勢本線)が藤並駅まで開通し、有田鉄道も藤並に駅を新設し連絡を行うようになりました。ただ紀勢西線開通により、みかんの輸送が湯浅港から鉄道輸送へシフトすることになります。

 さらに1927(昭和2)年8月、紀勢西線が紀伊湯浅駅(現・湯浅駅)まで延伸すると、有田鉄道の藤並~海岸間はあまり重要ではなくなってしまい、1934(昭和9)年に営業休止となります。その後一度は営業再開しますが、旅客営業は1940(昭和15)年に廃止、そして戦雲急を告げるとともに同区間は不要不急路線とされ、1944(昭和19)年12月にレールが撤去されました。

 その見返りとして、終戦後の1950(昭和25)年4月からは紀勢西線の湯浅駅まで乗り入れを開始。沿線の社寺への参詣者が利用することもあり、旅客営業は順調だったようです。なお1959(昭和34)年4月には、休止扱いだった藤並~海岸間が正式に廃止されました。

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1949年に廃車となったキハ42037を1952年に譲り受けたキハ210は、カラーリングが異なっていた。エンジンはGMF33→DA55→DMF13と載せ替えている。車内はロングシートである。キハ210。1970.11 藤並(所蔵:網谷忠雄)。

 しかしながら、ご多分に漏れずその後のモータリゼーションの進展に伴い、1965(昭和40)年をピークに旅客は減少。みかんなどの貨物輸送も次第にトラック輸送への切り替えが進み、1984(昭和59)年2月に貨物営業は廃止されてしまいました。

 貨物営業は有田鉄道にとって大きな収入源であり、経営は厳しさを増します。対策として人員の大幅削減や車両保守を近くの自動車整備工場へ委託するなどの合理化が図られました。

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Writer: 宮下洋一(鉄道ライター、模型作家)

1961年大阪生まれ。幼少より鉄道に興味を持つ。家具メーカー勤務を経て現在はフリー作家。在職中より鉄道趣味誌で模型作品や鉄道施設・車輌に関する記事や著作を発表。ネコパブリッシングより国鉄・私鉄の車輌ガイド各種や『昭和の鉄道施設』・心象鉄道模型の世界をまとめた『地鉄電車慕情』など著作多数。現在も連載記事を執筆中。鉄道を取り巻く世界全体に興味を持つ。

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