有人特攻兵器「桜花」に“生きて帰れる仕様”があった 製造2機のみ なぜ米国で展示へ?
桜花の弱点とは? それに対応した派生型と練習機
そもそも、「桜花」自体、今の価値観からすれば到底理解できない特攻兵器という存在ですが、当時の旧日本軍はこれが戦況を打開する兵器だとして優先的に開発を行っており、戦争の推移に合わせて随時、改良型も計画されていきました。
一般的に有名な「桜花」は11型と呼ばれるモデルです。このモデルは自身で離陸することができないため、当時、旧日本海軍が運用していた一式陸上陸上攻撃機、通称「一式陸攻」を母機に転用し、同機の爆弾倉に搭載する形で離陸、敵艦隊にある程度接近したところで切り離され、一定距離を飛翔したのち敵艦に体当たりするという流れでした。
しかし、「桜花」11型は通常の爆弾や魚雷よりも重かったため、それを搭載した一式陸攻は鈍重となり、敵機に容易に迎撃・捕捉される事態が多々おきます。母機である一式陸攻が撃墜されれば、切り離し前の「桜花」も運命をともにするしかありません。資料によると、「桜花」攻撃に参加した一式陸攻の6割以上が撃墜されたといいます。
実戦では「桜花」のパイロット55名が特攻によって亡くなっていますが、同時に発射母機となった一式陸攻も52機が撃墜されており、その乗員である約360名の命が失われています。
これらの戦訓から、発射母機が「桜花」の運用状の弱点だと判断した旧日本海軍は、航続距離を伸ばして地上から発進する改良型の開発を進めます。これが43乙型と呼ばれるタイプです。
「桜花」43乙型は、推進装置に固体ロケットではなく「ネ20」ジェットエンジンを搭載。これにより航続距離は、11型の37kmに対して約278kmに伸びる予定でした。また、離陸の方法も空中投下ではなく、地上に設置されたレールの上からカタパルト発進するやり方に変更されており、そのための発射拠点として大戦中には京都府の比叡山と神奈川県の武山に基地が作られています。
ピマ航空宇宙博物館に展示されている「桜花」K-2は、この43乙型の練習機として製造された機体です。
「桜花」の練習機としては、11型を元にした単座の滑空機「桜花」K-1もありましたが、「桜花」K-2の場合は前方部分に操縦席を追加して学生と教官がともに乗り込み、飛行訓練することが可能で、加えて推進装置として11型の「4号1式噴進機」1基も搭載していた点が異なります。これによって離着陸だけでなく、本番と同様にカタパルトからの発進も訓練で体験することが可能でした。
また、訓練で繰り返し用いるため、再使用するための着陸用スキッドを標準で備えていたのも大きな特徴です。
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