「驚くほど洗練された高速爆撃機」海外も絶賛した旧海軍機とは 生みの親は戦後に鉄道へ
戦果のほどは
部隊配備は1943年8月から行われたものの、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖開戦時でも数がそろわず、6月15日に出撃した10機のうち8機は未帰還。18日は8機中7機が未帰還と、大きな損害を出しつつも、戦果はあげられませんでした。
「銀河一一型」として制式採用された1944年10月の台湾沖航空戦では大損害を被りつつも、1機がアメリカ軍の軽巡洋艦「ヒューストン」に雷撃を成功させ、大破に追い込みます。
しかし部隊は壊滅し、直後のレイテ沖海戦当初、フィリピンに展開していた「銀河」はわずか2機だけでした。レイテでは「銀河」は特攻に用いられ、駆逐艦「アンメン」「クラクストン」を体当たりで損傷させ、貨物船を撃沈しています。通常攻撃(爆撃)では駆逐艦「キレン」を撃破しています。
1945(昭和20)年3月の航空戦でも、「銀河」は体当たりで空母「ランドルフ」を大破、「イントレピット」を小破させたほか、空母「フランクリン」を急降下爆撃で大破させています。
続く沖縄戦で「銀河」は、大型駆逐艦「ドレクスラー」を撃沈、輸送船1隻を大破、軽敷設艦1隻、戦車揚陸艦1隻、貨物船1隻を小破といった戦果をあげています。しかし消耗も大きく、約1100機生産されたうち、終戦時の残存機は182機でした。
また、高速性能や搭載量を活かして、下向きに20mm機銃を搭載した改造機や、上向きに20mm機銃を搭載した夜間戦闘機型(後の試製「極光」)なども製作されましたが、成功は収めていません。
期待されたほどの戦果をあげられなかったことから「国破れて銀河あり」と揶揄もされた「銀河」ですが、終戦後にイギリス航空誌で「350マイル(563km/h)出る、驚くほど洗練された高速爆撃機」として高く評価されています。設計統括主務者であった三木忠直海軍少佐は、戦後に技術を平和利用に供したいとして鉄道車両技術者に転身し、小田急電鉄の特急ロマンスカー3000形「SE」や0系新幹線など、鉄道史に輝く名車開発に関わりました。
【了】
Writer: 安藤昌季(乗りものライター)
ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロ イラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。
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