もし戦艦「大和」やめてたら? 海に消えた“国家予算の約1割”で一体なにを作れたのか

海防艦なら100隻近く でも乗組員は?

●海防艦の場合
「旧日本海軍は補給を軽視し、船団護衛に力を入れなかった」との批判もあります。大和型と同じマル3計画では、占守型海防艦が建造されており、1隻321万円です。建造施設を考えないとして、大和型2隻の予算で84隻を建造できます。

 ただし、大和型2隻の乗組員は建造時で5000名ですが、海防艦84隻の乗組員は1万2600名必要であり、人員面でそこまで作れない可能性があります。さらに海防艦が84隻あれば戦争が有利になったかといえば、ならなかったでしょう。

 日本がアメリカと互角に戦闘できたのは1942(昭和17)年までで、その時点ではまだ海上交通線が機能していました。日本が物量で圧倒され始めた後に大量の海防艦があったとしても、アメリカの空母機動部隊や水上艦艇の襲撃を受ければ、海防艦では壊滅します。前線を維持する戦力なしで、後方を充実させてもどうにもならないということです。

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巡洋艦改め海防艦となった「八雲」。写真は1946年3月、台湾からの引き揚げ者を乗せて広島県大竹市に到着した際のもの(画像:アメリカ国立公文書館)。

●高速油槽船の場合
 旧日本海軍で切実に常時不足していた艦艇は、艦隊に随伴できる高速油槽船(タンカー)でした。真珠湾攻撃などを支えた東亜丸型油槽船は、20ノット(約37km/h)を発揮できる高速ですが13隻しかありませんでした。

 旧日本海軍のタンカー不足は深刻で、ミッドウェー海戦後には艦隊決戦1回分の燃料しかないほどの燃料不足であり、ガダルカナル島の戦いで大和型戦艦が出撃できなかった一因も、タンカー不足で燃料がなかったからといわれています。さらにマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦で艦隊の出撃が遅れたのも、タンカーの手配ができず燃料の心配があったからです。

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