ヒトラーが生んだ「世界的名車」なぜユダヤ人が協力? 独大企業の飛躍にかつての敵が尽力したワケ

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 しかし、ここで問題が発生します。もともと国策会社であったフォルクスワーゲンは、ナチス政府が経営を担うことを前提にしており、製造する製品と生産工場はあったものの、経営を司る会社組織が存在しなかったのです。これでは経営計画の立案や販売網を整備することができず、企業としての体を成しません。

 そこでハースト少佐は、1948年にオペルの重役だったハインツ・ノルトホフを招聘し、経営母体となる会社組織の設立を命じました。これを機に品質管理や販売網、サービス網整備にまで注力し、フォルクスワーゲンの礎を築いたハースト少佐は、社長となったノルトホフに徐々に権限を移行させると、1949年の「フォルクスワーゲンAG(株式会社)」設立とともに職を辞しました。

 こうして誕生した新生フォルクスワーゲン社は、オランダを皮切りに世界各国への輸出を開始します。なかでも自動車大国・アメリカへの進出は、収益性の高さが見込めることからフォルクスワーゲンの経営戦略において最重要事項とされました。

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100万台生産記念を達成した1955年型フォルクスワーゲン「タイプ1」(画像:フォルクスワーゲン)。

 しかし、当時アメリカの自動車産業を牛耳っていたのは、GM(ゼネラルモータース)、フォード、クライスラーのいわゆる「ビッグ3」でした。彼らは、消費者の購買意欲をくすぐるべく乗用車の肥大化を押し進めており、それを喜んで買い求めるアメリカ人の多くは「大きなものは良いことだ!」との価値観を信じ切っていました。

 それに加えて、戦争終結から間もないこの時期、アメリカ国民のドイツへのイメージは最悪と言ってよく、その出自から「タイプ1」は「ナチスが作ったクルマ」との誹(そし)りを甘んじて受け入れざるを得なかったことも影響し、販売は好調とはいかなかったのです。

 フォルクスワーゲン「タイプ1」は、1949年にオランダで代理店契約を結んでいたホフマンを通じてアメリカへ正規輸出されていたものの、前述したような理由からまるで奮わず、1953年にフォルクスワーゲン自らが現地法人を設立して本格的に輸出・販売に乗り出すも、当初その成績はパッとしませんでした。

 そこでノルトホフは、販売上の不利を挽回するためには広告宣伝が重要だと考え、マンハッタンにオフィスを構える広告代理店「DDB」に仕事を依頼することにしたのです。

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