戦前は重要幹線も… 強力なライバル前に一時は廃線の危機 そこから逆襲を図った伊勢のローカル線
三重県の多気~鳥羽間で運行されるJR参宮線。現在はローカル線ですが、戦前は日本有数の重要路線で、東京や関西からの直通列車も運行されていました。近鉄特急に押されつつも、今なおハイグレードな快速も走ります。
強力なライバル「近鉄名古屋線」の台頭
戦後、東京、名古屋、京都、大阪などからの直通列車が復活します。しかし1959(昭和34)年、近鉄が伊勢湾台風被害からの復旧を機に、名古屋線を標準軌(編注:新幹線と同じ線路幅)へ改軌し、1963(昭和38)年には途中駅での乗り換えも解消して、名古屋、大阪、京都からの電車による特急直通を可能としました。ライバルの台頭で、参宮線は大打撃を受けます。
参宮線は、名古屋方面からだと亀山駅でスイッチバックが必要でした。実際、1966(昭和41)年に登場した、鳥羽~名古屋間の気動車急行「いすず」の所要は2時間23分。対する近鉄特急は最短で1時間30分程度と大差があり、「いすず」は2年半で廃止に追い込まれています。
東京からの直通列車には、夜行急行「伊勢」が設定されていました。1964(昭和39)年時点では、東京発22時45分、鳥羽8時45分着というダイヤで、湊町(現・JR難波)行きの急行「大和」と併結し、鳥羽行きは1等座席車1両、2等寝台車2両、2等座席車3両という編成でした。「伊勢」は1972(昭和47)年に廃止されています。
京都からの気動車急行「志摩」は、京都~鳥羽間を2時間57分で結び、グリーン車も連結していましたが、近鉄特急に対抗できず1986(昭和61)年に廃止。これにより、参宮線から優等列車が消滅しています。
結果、路線廃止のうえバス転換が妥当と判断されるほど乗客が少なくなった参宮線ですが、1987(昭和62)年にJR東海が発足すると、キハ82系特急形気動車で「ホームライナーみえ」が名古屋~伊勢市間に設定されたのを皮切りに、名古屋~鳥羽間では臨時快速「伊勢路」が運行を開始します。その後、「伊勢路」は1990(平成2)年に快速「みえ」へと発展。「みえ」は当初、キハ58系急行形気動車でしたが、エンジン換装、リクライニングシート装備により、設備や速度面で近鉄特急に肉薄します。
>近鉄特急が近鉄名古屋~鳥羽間で最速1時間33分(大半は1時間40分前後)、
運賃+料金で3410円なので、JRが選択肢に入る程度には盛り返したともいえるでしょう。
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これは名古屋発のJR東海ダイヤのために紀勢線ダイヤ(及び、JR西との亀山接続)が
割を食っている点を「度外視した」場合の方便でしかない。つまり県内の単線・各停ローカルが
住民の足としては「そもそも機能していない」ことをも等閑視した記事であり、JR東海と西の
連携不調を追認するものと映る。
例えば、JRの京都(草津線)や大阪(関西線)方面からの終点は亀山駅になるが、
「戦前や60sの一時期は直通していたものが」JR分社化以降、柘植-亀山間で最大
2回の乗り継ぎが生じることで、関西方面からの連絡を完全に阻害している。
因みに京都-津の95km程度をJR西を使った場合は最悪3h30を要する。
一時間に一本の名古屋方面の利便性(とやら)を喧伝することは、評価として均衡を欠いている。
つまり、これを近鉄特急の競争力「だけで」説明することはJR西・東海の観光列車企画、運用に
おける長年の不作為、および機会損失を不問にすることに等しい。
もともと参宮線の前身は五畿七道を起源とする。斎王の「群行」や明治天皇の聖跡、
或いは将軍の伊勢参りと江戸のお伊勢参りの遥か古代にまでさかのぼる奈良や京都の朝廷文化と
密接に繋がるもの。歴史回廊、文化面での連絡、さらにはインバウンドを考えても、乗り鉄ありき、
こうした記事は厚みが足りない。イチゲン観光客や乗り物オタクの視点ばかりではなく、
機会があれば、交通行政としてのJRの役割や広域移動の視点からの記事を期待したい。