グアムに行ったら旧海軍の潜水艦がありました 艦首が変な形をしていますが、どんな使い方だったのでしょうか?
日本ではリゾート地として有名なグアム。そこの太平洋戦争記念館ビジターセンターには、旧日本海軍の潜水艦「甲標的」が保存・展示されています。ただ、グアム島の攻防で潜水艦は使われたのでしょうか。調べてみました。
もともとは艦隊決戦兵器として開発
「甲標的」は、小規模な船体と前述したような真珠湾攻撃での状況から、片道切符の特攻兵器というイメージを持つかもしれません。しかし、決してそのようなことはなく、交戦した後は帰還しようと思えば可能でした。

では、なぜ、あのような性能やサイズになったのでしょうか。それはこの潜水艇が艦隊同士の決戦を想定して開発されたからです。
「甲標的」は艦隊に随伴する母艦から発進し、本体の前衛として最初に敵艦隊を魚雷で攻撃。その後はその場に留まって後で艦隊に回収されることを想定していました。海中待ち伏せに特化した「魚雷発射プラットフォーム」ともいえる兵器で、そのために短い航続距離と小型の船体でも十分だと考えられました。
しかし、空母と航空機の発展によって艦隊同士が直接戦闘を行う思想が過去のものとなったことで、艦隊の前衛として戦う「甲標的」の運用方法も見直されることになりました。そして、代わりに生まれたのが、真珠湾攻撃のような敵港湾施設への侵入攻撃だったのです。
「甲標的」はエンジンを搭載しておらず、航行はバッテリーのみであるため、航続距離は約150kmと極めて短くなっていました。そのため戦闘では自力で港から出航せずに、潜水艦や母艦に搭載されて敵地近傍の海域まで運んでもらい、そこから発進して敵港湾部を攻撃するという運用がとられています。
真珠湾攻撃以降もさまざまな海域で港湾部攻撃を実施しており、1942(昭和17)年にはオーストラリアのシドニー港とマダガスカル島のディエゴ・スアレス港を攻撃して、停泊中の艦船を撃沈・大破させるなどの被害を与えました。
しかし、船体の小ささや運動性の悪さから、通常の潜水艦のような雷撃戦は難しく、航続距離も短かったことから結果的に帰還が困難な場合も多かったようです。このグアムに展示されている潜水艇も、1944(昭和19)年8月15日に同島の南東部の浅瀬を航行しているときにアメリカ軍に発見され鹵獲されたものです。
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