400mの直線に怒涛の「止まれ」標識…なぜ? 常識覆す“北関東の奇道”が生まれたワケ
“北関東の奇道”とも呼ばれる「止まれ」連続地帯。成立した背景には群馬県小泉町の歴史が関係しています。
実は旧海軍の機体を生産していた工場が関係
大泉町教育委員会事務局の坂本泰斗さんは、次のように語ります。

「実は、現在のパナソニック工場や役場、そして“止まれ”が連続している住宅街は、昭和15年(1940年)に完成した中島飛行機の小泉製作所の敷地でした。ここでは海軍機の組み立てが行われていました」
中島飛行機は、現在の自動車メーカーSUBARU(スバル)の前身であり、戦時中は零戦に搭載されていた「栄」エンジンを製造していました。実はエンジンだけでなく、開戦直前から戦時中にかけては、多数の海軍機の製造を担当していました。それだけではなく、三菱だけでは製造が追いつかなかった零戦本体も中島飛行機が製造しており、同機の約6割は中島製だったとされています。その大量生産を支えていた施設のひとつが、小泉製作所でした。
現在、「止まれ」標識が連続する地域は、当時の工員やその家族が住んでいた工員住宅だった場所にあたります。当時は工場の敷地内であったため、碁盤の目状にきちんと区画整理されていました。それゆえ現在もしっかり区画が整えられており、思わずスピードを出してしまいたくなるような、見通しのよい直線道路が続いているようです。
小泉製作所は戦後、GHQに接収され、アメリカ軍の施設「キャンプ・ドルウ」として利用されましたが、1959年(昭和34年)から順次返還が始まり、同年10月には広大な敷地が三洋電機(現在はパナソニックに吸収)に払い下げられ、同社の工場となりました。
坂本さんによれば、返還後、三洋電機の工場用地とならなかった一部の土地が公共施設や住宅地として整備され、そのひとつが、現在「止まれ」が連続する地域だといいます。
また、住宅街が幅広い道路に囲まれていることにも、当時の工場設計が関係しています。
「海軍機の組み立て施設には滑走路が整備されていなかったため、完成した機体は太田飛行場(現在のスバル大泉工場)まで運ばなければなりませんでした。そのため、軍用機の翼が木や家屋に当たらないよう、道路は当時から広く整備されていたんです」と坂本さんは話します。
つまり、完成した機体を直接飛ばして納入する「フェリーフライト」に備え、機体を安全に運搬できる輸送路として、現在の住宅街を囲む大通りが整備されたというわけです。
ちなみに坂本さんによれば、現在では区画整理により、当時より道幅が狭くなっている場所もあるそうです。小泉製作所の閉鎖から80年近くが経過した現在、建物などにその面影は残っていませんが、道路や街区に当時の名残を感じ取ることができます。
Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)
ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。
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