車両増やさず増発したい…“苦肉の作戦”で10%利用増! 「ジリ貧」の国鉄が始めた広島発の起死回生策
国鉄末期、地方都市圏の鉄道は長距離列車や貨物列車が優先され、不便なままでした。この状況を打破すべく導入されたのが「シティ電車」です。少ないコストで利便性を大きく向上させましたが、どのような工夫があったのでしょうか。
「汽車型ダイヤ」だった地方国鉄
東京都心の電車は戦前からかなりの本数が運行されていました。例えば1930(昭和5)年の時刻表を見ると、京浜東北線上野~蒲田間、中央線東京~中野間、山手線はいずれも日中4分間隔です。
ところが電化前の赤羽~大宮間は、日中1時間あたり汽車2~3本(普通列車)の運転で、1932(昭和7)年の電化後も、これに電車3~4本が追加されたにとどまりました。赤羽以南と異なり汽車と電車が線路を共有していた事情はあるにせよ、郊外の旅客需要がまだ小さかったことが分かります。
これが地方都市ならばなおさらです。1940(昭和15)年の山陽本線広島駅の岩国方面普通列車は、ほぼ1時間に1本で、12時台、13時台、21時台は列車がありません。国有鉄道の使命たる長距離優等列車と貨物列車を優先したダイヤでした。
山陽本線の電化が完了した1964(昭和39)年になっても、朝夕を除き1時間に1本の運行という「汽車型ダイヤ」が続きますが、これは線路を共有する貨物列車や特急・急行列車を優先するため、低頻度輸送にせざるを得なかったからです。また、赤字経営に転落した国鉄には地方線区に新型車両を投入する余力がなかったため、従来の客車を活用する必要があり、電気機関車牽引(けんいん)の長編成客車列車が存続しました。
この状況を変えたのが新幹線です。1975(昭和50)年に山陽新幹線岡山~博多間が開業すると、山陽本線の昼行列車は全廃され、夜行列車も大幅に削減。また、貨物輸送量の減少で貨物列車も減便し、地方都市周辺の線路容量にかなり余裕が生まれるようになります。
しかし、ジリ貧の国鉄は鉄道を維持するだけで精一杯。一部に導入した電車・ディーゼル車も、従来の客車列車をそのまま置き換え長編成で運行していました。1978(昭和53)年頃の岩国方面普通列車は終日で概ね毎時2~3本まで増発されるも、人口85万(当時)の都市圏としては貧弱なままでした。
1980年代に入ると国鉄再建が議論されるようになり、当局の危機感が高まります。ドル箱である新幹線と東京・大阪圏に注力するとともに、ローカル線の合理化を進めますが、その中間にあたる地方都市での競争力確保は鉄道の生き残りを賭けた、ある意味で最重要課題でした。
当時、国鉄名古屋鉄道管理局長だった故・須田寬氏は、私鉄は単線でも15~20分の等間隔運転を行い、輸送密度の低い私鉄でも単車の高頻度運転を行っているため、並行私鉄のある線区は国鉄から私鉄へ近距離客が転移してしまっていたと述べています。そして、名古屋や広島はその極端なケースでした。





国鉄時代は貨物列車が優先で、普通列車は乗り継ぎが非常に不便だった。
ある駅が終着の普通列車で、その駅から先の普通列車に乗り継ぎたい場合も、
ここまで乗ってきた普通列車がホームを出て引揚線に入るまで次の普通列車はホームに入線できなかった。
記事でこのコメでも述べているように優等列車はもちろん貨物列車も絶対に優先で停めるわけにいかなかったから、常に1本の線路は空けておかなければならなかったらだ。
JRになって旅客会社が貨物会社に線路を貸すようになって客貨の立場が逆転し、普通列車の乗り継ぎが格段に良くなった。