砂利・軍需品から競馬ファン・囚人まで! いろいろ運んだ異色の国鉄線、廃止50年だけど一部現役の数奇な歴史
50年前の1976年9月20日、国鉄下河原線が廃止されました。現在は武蔵野線の一部としてその姿を残すこの路線は、砂利輸送から始まり、競馬輸送、軍需輸送など時代に翻弄された歴史を持ちます。
特筆すべき刑務所との関係
軍需工場や軍施設を抱える下河原線は、戦争に飲み込まれていきます。決戦非常措置要綱を閣議決定し、学徒勤労令が施行されるなど動員が強化された1944(昭和19)年、競馬場輸送が9月末で廃止され、入れ替わるように11月から国分寺駅と各工場を結ぶ通勤者専用電車の運行が始まりました。また、空襲被害を避けるため中央線電車の避難先としても利用されたそうです。
航空機工場があった三鷹、立川、八王子などは激しい空襲を受けましたが、府中は大きな被害がなかったこともあり、戦後復興の拠点になります。東芝府中工場はEF58などの電気機関車、日本製鋼所は農具や調理器具など民生用製品を製造し、復興を支えました。
もう一つ特筆すべきは、府中刑務所との関係です。戦中の酷使で荒廃した鉄道車両が引き込み線で刑務所内に運ばれ、囚人が整備作業に当たりました。刑務所内だけでなく国有鉄道大井工場へ専用輸送電車(荷物車)を運行し、作業に当たらせたといいます。
1946(昭和21)年10月、東京競馬場で戦後初の競馬が開催されました。国有鉄道も翌年4月に東京競馬場前駅を復活させ、競馬開催日限定の運行を再開しました。そして1949(昭和24)年11月には国分寺~東京競馬場前間で旅客列車の定期運転が始まり、途中に富士見仮乗降場(1956年に北府中停車場に格上げ)が設置されました。
そして下河原線に大きな転機が訪れます。1964(昭和39)年に武蔵野線(松戸市~国分寺町)の建設計画が決定すると、翌年に国分寺~新鶴見間が追加されました。高規格の完全な新線として設計、建設された武蔵野線において、例外的存在が下河原線です。
武蔵野線は高架で中央線を乗り越えて、そのまま南下すると、北府中の先で地下に入り、府中本町に至ります。西国分寺~府中本町間の地上区間は下河原線を転用することで、北府中を中心とする専用線をそのまま使用できるようにしたのです。
1973(昭和48)年4月、武蔵野線新松戸~府中本町間開業と同時に下河原線は国分寺~東京競馬場前間の旅客輸送を終了します。府中本町に競馬開催時だけ使用する改札口「東京競馬場口」を設置することで、競馬場アクセスの役割を譲りました。
ただ、これで下河原線の歴史が終わったわけではありません。残る北府中~下河原間は武蔵野線の支線として存続しますが、1日2往復が往復するのみで、1976(昭和51)年に廃止されました。これが冒頭に記した「廃止から50年」にあたります。
府中市は1979(昭和54)年に北府中~下河原間と支線の跡地を買収し、歩行者と自転車専用の「下河原緑道」を整備しました。一見、よくある緑道ですが、南武線をオーバーパスで交差するところに鉄道時代の名残が見られます。
砂利、競馬観客、工業製品、労働者、囚人、いろいろなものをつないで走ってきた下河原線は、自らもまた武蔵野線にバトンタッチして役割を終えたのでした。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx





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