中央線の立役者だった「明治の鉄道王」 全国展開した「軽便王国」は建設費10分の1も…10年あまりで見えた限界
甲州財閥の雄、雨宮敬次郎は中央線の前身である甲武鉄道の経営で成功を収め、安く建設できる「軽便鉄道」網を広げました。しかし、彼が築いた「軽便王国」は一代で終焉を迎えます。
「乗りもの」と「あかり」に未来あり
甲州出身の投資家・実業家である若尾逸平は「もし株を買うなら、将来性のあるものでなければ望みがない。それは、『乗りもの』と『あかり』だ。この先、世がどう変化しようとも、『乗りもの』と『あかり』だけは必ず盛んにこそなれ、衰える心配はない」と説きました。
若尾は東京馬車鉄道(都電のルーツ)、東京電灯(現・東京電力)を買収し、経営に乗り出して大きな成功を収めます。後身の山梨県出身の実業家も鉄道事業、電力事業に乗り出したことで、彼らは「甲州財閥」と呼ばれるようになりました。
代表する人物としては、東武鉄道の社長を務めた根津嘉一郎、地下鉄の父と呼ばれた早川徳次、京王電気軌道(現・京王電鉄)社長で地下鉄経営にも携わった穴水熊雄が挙げられますが、最も手広く鉄道事業を手掛けたのが雨宮敬次郎でした。
雨宮は若尾より25歳若い1846(弘化3)年生まれですが、ともに明治中期から公共事業への投資を本格化したことから、甲州財閥の第一世代に括られます。雨宮が最初に関係した鉄道が、1888(明治21)年に設立された甲武鉄道(現・JR中央本線)でした。
甲武鉄道は新宿~八王子間の馬車鉄道計画に始まり、途中で蒸気機関に変更して本免許を取得しました。しかし発起人グループに十分な資力がなく、株主内にも対立が生じて離脱者が相次いだため、甲武鉄道の株価は暴落。ここで雨宮が株を買い占めて経営に参加しました。
無事開業した甲武鉄道は非常に好調な営業成績を収めましたが、雨宮はそれに満足しませんでした。この頃の「私鉄」は民間から資金調達し、国(鉄道局)に建設を委託する方式が主でしたが、建設費が高すぎる、もっと節約すれば儲かるはずと考えたのです。そこで関連会社の川越鉄道(国分寺~川越、現・西武国分寺線・新宿線)では敷設工事を自社で行い、建設費を半分に抑えました。





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