「讃岐の阪急」は本家を超えてた? ハイスペ設備に温泉・「宝塚」まで 先進的すぎた地方私鉄の構想
高松琴平電気鉄道(ことでん)の前身の一つである琴平電鉄は、「讃岐の阪急」と呼ばれた先進的な事業者でした。大手私鉄並みか、それ以上の高規格な設備と先進的な経営戦略は、100年後の今にも影響を与えています。
「讃岐の阪急」の理想は、果たせぬ夢に
しかし業績は阪急並みとは行きませんでした。全線開通直前に昭和金融恐慌が発生。2年後の1929(昭和4)年には世界恐慌の影響が波及し、日本経済は長期にわたる不況に苦しみます。期待の挿頭丘田園都市は販売が滞り、通勤輸送、観光輸送も伸び悩みます。
経営が安定するのは1930年代後半、軍需主導で景気が上向いてからのこと。1938(昭和13)年7月に経営難に陥っていた塩江温泉鉄道を吸収合併した後、冒頭に記した通り3社合併により高松琴平電気鉄道が成立します(塩江線は1941年に不要不急線として廃止)。
大西が目指した「讃岐の阪急」は不況と戦争で果たせぬ夢となり、彼自身も社長在任中の1945(昭和20)年2月に病気で亡くなりました。その後は弟の禎夫が社長を継ぎ、禎夫の死後は虎之介の子・潤甫が2000年まで務めました。
2001(平成13)年のことでん経営破綻は、長きにわたる大西家の同族経営が要因のひとつであることは否めません。その後、ことでんは大西家とは離れて再生を果たしますが、虎之介の理想は今も受け継がれています。
彼は琴平電鉄の用地買収にあたり、将来を見越して全線にわたり複線化用地を確保しておきたいと考えました。発起人の有力者が「十年以内に複線化するならいいが、さもなくば無駄である」とさすがに止めますが、高松~一宮間の用地は確保しました。
現在、ことでん琴平線の高松築港~仏生山間を全区間複線化する工事が進められています。このような工事は用地買収がネックになりますが、大西の慧眼が100年の時を越えて後押ししているのです。
どん底から復活を遂げたことでんは、今では地方交通の優等生と言われています。地方交通は厳しさを増していますが、今後は「讃岐の阪急」ならぬ「〇〇のことでん」が日本各地に誕生するよう、期待を込めて見守っていきましょう。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx





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