「武蔵」発見の実業家はなぜ戦没軍艦探索に情熱を傾けたのか? 追悼ポール・アレン氏

71年の時を経て戦艦「武蔵」再び

 アレン氏はこの2隻を使って、歴史に名を残した軍艦を次々と発見しました。それはたとえば、日本に投下された原子爆弾をB-29爆撃機の基地となっていたテニアン島へ輸送した直後の1945(昭和20)年7月30日に、日本海軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没したアメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」、1942(昭和17)年5月に旧日本海軍とのあいだで起こった「珊瑚海海戦」で沈没したアメリカ海軍の空母「レキシントン」、1941(昭和16)年5月に起こった「デンマーク海峡海戦」で、ドイツ海軍の戦艦「ビスマルク」の砲撃により轟沈した、イギリス海軍の戦艦「フッド」などが挙げられます。そして2015(平成27)年3月には、旧日本海軍の戦艦「武蔵」をフィリピンのシブヤン海で発見しています。

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戦艦「武蔵」の艦首方向。1942年6月の公試運転中に撮影されたもの(画像:アメリカ海軍)。

 アレン氏が発見した戦艦「武蔵」は、大和型戦艦の2番艦として1942年8月5日に就役しました。大和型戦艦は7万tを超える満載排水量、主砲の口径(46cm)とも史上最大の戦艦で、1943(昭和18)年1月から1944(昭和19)年5月まで、連合艦隊の期間も務めています。

 しかし就役した際には海戦の主役が戦艦から航空機に移行していたことに加えて、行動すると莫大な燃料を消費することから、太平洋戦争中のほとんどの期間、旧日本海軍の根拠地であったトラック諸島の停泊地から動かず、このため前線で戦っていた旧日本海軍の将兵からは、従来の戦艦に比べて快適な居住性を備えていたことへのやっかみを込めて「武蔵旅館」と揶揄されていたとの話もあります。

 1944年5月に連合艦隊旗艦の座を軽巡洋艦「大淀」に譲った「武蔵」は、同年6月の「マリアナ沖海戦」に参加したものの、目立った戦果を挙げることは無く、同年10月にフィリピン周辺海域で発生した「レイテ沖海戦」で、アメリカ海軍の空母艦載機の攻撃を受けて沈没。821日間の生涯を閉じました。

 生還した「武蔵」の加藤憲吉副長は退艦時に沈没地点を記録しており、後にその記録をもとにアメリカ海軍が捜索を行なったものの発見には至りませんでした。このため長らく「武蔵」の沈没地点は謎とされてきましたが、アレン氏は8年の歳月をかけて「武蔵」を発見。2015年3月13日には海底探査機の映像のインターネット中継を行ない、全世界の人々が戦没から約71年間の時を経て、シブヤン海の海底に眠る「武蔵」の姿を目の当たりにすることとなりました。

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