カルロス・ゴーン時代の日産を振り返る どん底からスタートした約20年の足跡とは?
カルロス・ゴーン氏が、窮地に陥っていた日産の最高執行責任者(COO)に就任したのは1999年のことでした。それからおよそ20年、両者がたどった足跡を振り返ります。
ゴーン氏逮捕の衝撃走る
2018年の日本自動車業界における最大の話題は、11月19日の「日産の会長であるカルロス・ゴーン氏の逮捕」でしょう。しかし、発生から1か月たった12月下旬の現在でも、事件の詳しい全貌は見えてきません。この後も、法廷を舞台にした争いが長期化する可能性さえあります。
まさかの展開となったゴーン氏と日産自動車ですが、これまで両者はどのような道を歩んできたのでしょうか。そのおよそ20年間を振り返ってみようと思います。
窮地に陥っていた日産、変革の第一歩は1999年
1998(平成10)年の日産は、まさにジリ貧と呼べる状況でした。国内シェアは20年以上も下降線。世界シェアも90年代に入って落としており、1991(平成3)年以降の8年間で7度の赤字。自動車関連事業の有利子負債は、90年代を通してつねに2兆円を抱え、1998年には2兆1000億円が残っていました。また同年の世界生産台数は255万5962台でした。
そのような窮地に手を差し伸べたのが、フランスの自動車会社、ルノーでした。1999(平成11)年3月に、日産とルノーのあいだでグローバルな提携契約が結ばれ、ルノーが6430億円(約50億ユーロ)を出資して日産と、日産ディーゼルの株式を取得。日産が事実上、ルノーの傘下となります。そして、ルノーからはカルロス・ゴーン氏が最高執行責任者(COO)として派遣されます。ゴーン氏は、ルノーやフランスのタイヤメーカーであるミシュランなどで、業績が悪化した工場の立て直しなどを手掛けてきており、「コストカッター」と呼ばれる、再建のプロだったのです。
日産にやってきたゴーン氏は、来日後わずか数か月となる1999年10月に、再建プランである「日産リバイバル・プラン」を発表します。これが驚きの計画でした。たった3年で、コストを1兆円削減、有利子負債を半分にするというのです。その内容は苛烈です。5つの工場を閉鎖し、人員を2万1000人削減、取引サプライヤー(部品供給メーカーなど)も半減するというものでした。
CCSCモデルがこんなに影響力があるとは。