目黒の住宅街にある大屋根の正体 戦艦「大和」も実験か 旧海軍施設なぜいまも現役?

海がない目黒の海軍施設

 旧日本海軍を代表する戦艦「大和」は、日本の技術の粋を集めた軍艦で、設計・建造に当たっては技術的に未知の分野も多く、様々な実験が行われました。1935(昭和10)年ごろにこの施設の水槽で実験を繰り返し、艦型を決めたといわれていますが、それを裏付ける書類などはどこにも残っていません。「大和」関係資料は敗戦時に多く処分されてしまっており、現在のところ、この施設で実験されたか否かは確認することができないのです。

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水槽上の鉄橋のような構造物が「電車」と通称される曳引車(画像:防衛装備庁)。
曳引車の運転台。電車のようなブレーキハンドルがある(画像:防衛装備庁)。
毎日磨かれる曳引車が走るレール(画像:防衛装備庁)。

 JR恵比寿駅に近い閑静な地域にある「海軍施設」の歴史は、1857年に江戸幕府が砲薬製造所を建設したところから始まります。同施設はその後、1885(明治18)年に明治政府の海軍火薬製造所になり、1930(昭和5)年には海軍技術研究所が築地から移転し、大水槽棟を含む施設が完成しました。近くに海がないにも関わらず、目黒は海軍とは縁が深い土地柄です。

 1930年は「ロンドン海軍軍縮会議」が開かれた年で、日本は列強海軍に肩を並べられる軍艦を造ろうと、国を挙げて努力している時期であり、この海軍技術研究所には技術の粋が集められ、様々な実験施設が造られました。いまは埋められてしまいましたが、屋外に実験用の大きな池もあったそうです。太平洋戦争末期には空襲を受けますが、屋根を焼失した程度で設備に大きな被害はありませんでした。

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