東日本大震災 全国から駆け付けた「支援バス」その後 関西のバス いまも東北を走る

「東日本大震災」の際、地域の路線バスは、大きな被害を受けながらも人やモノを輸送し続けました。それを支えるべく、全国のバスが被災地へ譲渡されましたが、なかにはいまも、元のカラーリングのまま東北を走っているものもあります。

「3・11」そのとき、路線バスはどうしたか

 2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は、公共交通機関にも大きな被害を及ぼしました。そうしたなか、地域の路線バスは発災当初から運行を続け、全国の事業者も現地へ応援に駆け付けました。「3.11」当時と、「その後」を振り返ります。

 宮城県や岩手県では特に、津波や高潮で大きな被害を受け、海から500mほどの距離にあるミヤコーバス気仙沼営業所(宮城県気仙沼市)のように、社屋と停車中の車両がすべて津波で流されたケースもありました。同営業所では、従業員の避難が間に合ったのは幸いでしたが、営業所の周りは地盤沈下もあり、半年間は水が引かず近寄ることもできなかったそうです。

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岐阜県の濃飛バスからミヤコーバスへ譲渡された車両。濃飛バスのカラーのまま、おもに鉄道代行バスとして使われた(2013年4月、宮武和多哉撮影)。

 宮城交通が受託していた仙台市交通局の岡田出張所(仙台市宮城野区)では、地震発生を受け、営業運転中のバスと乗客を安全な場所まで避難させる指示が出されました。この地域では、南北に走る「仙台東部道路」の盛り土で津波がほぼ止まったため、バスは道路の西側にある安全な場所まで乗客を運び、難を逃れたそうです。

 岩手県南部を営業エリアに持つ岩手県交通の大船渡営業所(岩手県大船渡市)では、2010(平成20)年のチリ地震発生後に決めた津波対策が生かされました。38台中20台強が営業運転中でしたが、全車両に装備していた防災用ラジオで状況を把握し、「津波が来たら立根(たつこん)へ」という事前通達のとおりに避難行動が行われました。津波警報が出たら、5kmほど内陸部にある立根操車場へ避難せよ、との意味です。バス数台が流失したものの、被害は最小限にとどまったそうです。

 震災後、運行を再開した路線バスには、以前には考えられなかった問題が山積していました。これまで走っていた路線バスのコースは変わり果て、避難所には自家用車も失い着の身着のままの人々があふれていたのです。

【写真ギャラリー】震災当時 あのころの被災地とバス

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