旧陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍」の誤算 計画上は護衛機いらずの最強爆撃機 実際は…?

祝賀ムードの中特別な名前を授けられた「呑龍」だが…

 試作機が初飛行したのは1939(昭和14)年。制式採用されたのは1941(昭和16)年8月となっています。本来ならば開発完了し制式採用されたのが皇紀だと2601年であったことから「一式重爆撃機」と命名するところを、前年が皇紀2600年で全国的に祝賀ムードだったことにあやかろうと、「一〇〇式重爆撃機」とした経緯があります。

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「子育て呑龍」の呼び名で知られる群馬県太田市の大光院(斎藤雅道撮影)。

 愛称の「呑龍」は勇ましそうな名前ではありますが、実は当時、中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれる寺院、大光院があったことから、これにちなみ名付けられたそう。「呑龍」は同寺院を開山(創設)した江戸時代初期の実在人物の名で、多くの子どもが間引かれていたことを悲しみ、弟子として引き取り育てたとされています。

 こうして名誉な名前をもらった一〇〇式重爆撃機でしたが、制式採用され運用の始まった1941(昭和16)年から早くも問題が出始めます。

 まず、速度が九七式重爆撃機とそれほど大差ありませんでした、確かに陸軍爆撃機として初めて搭載した20mm機関砲1門のほかに、7.92mm機関銃5挺を備える重武装と防弾性の高さは評価されましたが、一番肝心なエンジン「ハ-41」の信頼性が悪く、故障が頻発してしまい、旧式機の方が現場では好まれるという状況になってしまいました。

 それでも陸軍では、運用しているあいだにエンジンを改良し、ほかの部分も改良していくことで、同機をやがて主力にしようと考えていましたが、その目標は早くも制式採用年末に行った真珠湾攻撃で、根底から覆ることになります。

【写真】南の島へ配備された「呑龍」

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コメント

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1件のコメント

  1. 「爆弾倉を持たず」とありますが、外に爆弾を吊した写真は見たことがありません。また、三面図にも爆弾倉の線がクッキリと書き込まれており、一方、爆弾を吊す爆弾架は描かれていません。どういう根拠で爆弾倉を持たないとお書きになったのでしょうか。不思議ですね。