ホームの屋根落ち火の手も 東京駅と関東大震災 犠牲者ゼロにした駅員の神対応
火災発生 地震には耐えた東京駅舎に火の手が迫る
関東大震災では、東京駅で乗客に1人の犠牲者も出さなかった(軽傷者数名程度)ことが評価され、上記の駅員は、後に鉄道省から表彰されています。ただ、その後に迫ってきた火の手への対応も、評価されるに値するでしょう。
地震発生直後から、東京では凄まじい勢いで火災が広がりました。午後5時くらいまでは南の風で、神田、本郷、本所、深川の大半が焼け野原と化しました。夕方から翌2日未明にかけては、西または北からの強風に変わり、浅草、下谷、日本橋、京橋、芝の大部分を猛火が舐めつくします。これにより秋葉原駅から東京駅付近にかけてと、新橋駅から浜松町駅にかけてが焼けました。9月2日の昼からは、焼け残っていた地をしらみつぶしに殲滅するように、東風に乗って浅草方面から上野駅へと火が迫り、夜に至って上野駅は全焼してしまいます。
一方、震災前の1914(大正3)年に竣工した東京駅の赤煉瓦駅舎は、地震の強い揺れでもほとんど損傷はありませんでした。その後に火の手も襲ってきましたが、駅員たちの活躍により、焼失を免れたのです。
客車の水タンクにはまだ空気圧による揚水装置がなかったので屋根に備わっていたのですね。戦後サハリンやインドネシアに輸出された車両にも屋上にハッチがあるものがありました。特に前者は妻板に梯子もついていました。またインドネシアではウオータースポートが健在なのも頷けます。