ホームの屋根落ち火の手も 東京駅と関東大震災 犠牲者ゼロにした駅員の神対応
9月1日が「防災の日」に制定されるきっかけとなった関東大震災では、東京圏を激震が襲い、さらに広域で火災が発生しました。火の手が迫る中、被害を最小限に食い止めようと東京駅で奮闘した駅員がいました。
駅員が発した「線路に飛び下りろ!」 負傷者はわずか数名
1923(大正12)年9月1日、関東地方南部を大地震が襲いました。東京の下町と横浜市街を中心に死者約10万5000人を出した関東大震災です。被害の大半は広域火災によるものでした。
鉄道にも大きな被害がもたらされています。その一例として東京駅の出来事を見てみましょう。そこには「神対応」とも思える鉄道員の奮闘がありました。
正午前の東京駅第3番ホーム(5・6番線)。そこには下関発急行第6列車を出迎える40名ほどが集まっていました。いつものように8620形蒸気機関車が、和食堂車も連結された14両の客車を従えて、到着してくるはずでした。
午前11時58分、地鳴りと共に激震が始まります。金属がきしみあう不気味な音が響きわたり、ホームの屋根が5番線方面へ傾きながら落下してきました。出迎えの人たちが悲鳴をあげます。この時、ホームにいた駅員がとっさに6番線側を指さして、
「こっちの線路に飛び降りろ!」
と、大声で叫びます。長いホームを走りながら、何度か声を限りに叫びます。
ある者は一目散に、またある者は年配のご婦人を抱きかかえるようにして線路に下りていきます。そのおかげで、ホームの屋根は完全にペチャンコになりながら、数名の軽傷者を出しただけで済みました。
現在なら、駅員が「線路に飛び下りて!」と叫ぶことは、ありえないと思うかもしれません。そうした指示となったのは、当時のホームが現在よりやや低かったこと、東京駅のような大きな駅は手前に分岐器がいくつかあり、そこで列車は減速して入線してくることなどが考えられます。
ちなみに、2011(平成23)年の東日本大震災では、仙台駅で新幹線ホームの天井材が大規模に落下しました。幸いこの時ホームに乗客はいなかったのですが、もし乗客がいたら、とっさにどこへ逃げるか究極の選択を迫られたと思います。
客車の水タンクにはまだ空気圧による揚水装置がなかったので屋根に備わっていたのですね。戦後サハリンやインドネシアに輸出された車両にも屋上にハッチがあるものがありました。特に前者は妻板に梯子もついていました。またインドネシアではウオータースポートが健在なのも頷けます。