零戦エンジンとスワローズファンを運んだ引込線 壮絶な過去と廃線のワケ

半年足らずで11回の爆撃 来襲したB29は延べ1000機以上 なぜここまで?

 武蔵製作所は、1938(昭和13)年に生産を開始し、戦時中には現在の都立武蔵野中央公園から武蔵野市役所にかけて、東京ドーム12個分という広大な敷地を擁して、軍用機のエンジンを生産していました。最盛期にはここで約4万人が働いていたとされます。

 また、同製作所よりさらに北、現在の西東京市ひばりが丘団地一帯には中島航空金属の工場があり、この二つの工場を結ぶ簡易軌道が敷かれ、部品などが運搬されていたようです。こちらは現在、軌道跡だと認識しやすい箇所はほとんどありません。

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中島飛行機武蔵製作所があった場所は現在、都立武蔵野中央公園になっている(2020年10月、内田宗治撮影)。

 当時国内で一般に発行された地図には、この簡易軌道は一切記されておらず、戦後は忘れ去られルートが特定できなかったのですが、終戦前後に米軍が作成した地図にその軌道が記されており、現在は詳細なルートが判明しています。

 中島飛行機武蔵製作所引込線に話を戻すと、米軍がB29爆撃機を用いて本格的な日本本土空襲を行うようになった時、最初に攻撃する地として選んだのが同製作所でした。米軍は、同製作所がひと月に1500の航空発動機を生産していると見積もり、それは日本の航空発動機生産の38%を占めるとして、攻撃の最重要地点に据えたのです。

 さらに同製作所が特異なのは、1944(昭和19)年11月24日の初の本格的日本本土空襲から翌1945(昭和20)年4月12日まで、計11回も爆撃されたことです。来襲した爆撃機数は延べ1000機を超え、毎回数百トン以上の爆弾が一帯に投下されています。何度も空襲されたのは、最初の数回は高射砲が届きにくい高度8000m以上からの爆撃であり、同製作所からそれて着弾したものが多かったためです。

【地図】武蔵境駅から旧中島飛行機武蔵製作所までの引込線と野球場への旅客線

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コメント

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2件のコメント

  1. 武蔵境の東京方から左に伸びるのは 境浄水場専用線 で
    中島飛行機や競技場に伸びていた 三鷹の高尾方から右に伸びる 競技場線 とは全く別物 で、中央線への接続駅を付け替えた という話しではないのでは??

  2. 2020.11.10の記事
    「零戦エンジンとスワローズファンを運んだ引込線 壮絶な過去と廃線のワケ」に
    「境浄水場引き込み線」との混同による 間違いがあるようなのですが?