零戦エンジンとスワローズファンを運んだ引込線 壮絶な過去と廃線のワケ

武蔵製作所は野球場に 引込線跡を活用し三鷹駅から旅客路線も

 戦後、武蔵製作所の敷地は西側半分が米軍の接収となり、1954(昭和29)年に米軍将校とその家族の宿舎であるグリーンパークとなりました。東側半分には1951(昭和26)年、東京スタジアムグリーンパーク野球場(武蔵野競技場)が建設され、主にプロ野球国鉄スワローズの主催試合が行われました。こけら落としにはプロ入り2年目の金田正一投手が先発しています。

 野球場開設にあたり、国鉄はスタジアム前に武蔵野競技場前駅を開設しました。かつての軍用線を利用しながら、中央線とは三鷹駅(東京都三鷹市)でつながるように線路を伸ばし、野球開催日には東京駅から武蔵野競技場前駅までの直通列車も走らせています。

 しかし観客不入りの日が多く、プロ野球開催は初年限りとなり、線路は1959(昭和34)年に廃止となります。

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武蔵境駅付近の廃線跡は現在、本村公園になっている(2020年10月、内田宗治撮影)。

 現在、線路跡は多くが緑道となり、三鷹駅からの分岐付近は堀合遊歩道、武蔵境駅からの分岐付近は本村公園、その先はグリーンパーク緑地と名付けられ、武蔵製作所のあった都立武蔵野中央公園まで続いています。

 途中、玉川上水を渡る「ぎんなん橋」では、橋上にモニュメントとして線路が敷かれ、当時のコンクリート橋台も一部残っています。その先600mほど北に進むと、関前公園の中、緑道の傍らに関前高射砲陣地跡の案内板が立っています。付近にはかつて6門の高射砲が置かれていました。

 廃線跡の緑道は、歩きながら戦中戦後の歴史に思いを馳せることができる散策路です。

【了】

※一部修正しました(11月11日20時10分)。

【地図】武蔵境駅から旧中島飛行機武蔵製作所までの引込線と野球場への旅客線

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Writer: 内田宗治(フリーライター)

フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。

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コメント

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2件のコメント

  1. 武蔵境の東京方から左に伸びるのは 境浄水場専用線 で
    中島飛行機や競技場に伸びていた 三鷹の高尾方から右に伸びる 競技場線 とは全く別物 で、中央線への接続駅を付け替えた という話しではないのでは??

  2. 2020.11.10の記事
    「零戦エンジンとスワローズファンを運んだ引込線 壮絶な過去と廃線のワケ」に
    「境浄水場引き込み線」との混同による 間違いがあるようなのですが?