B-29より影響大? マッカーサー元帥も乗ってきたC-54輸送機と日本の浅からぬ関係

作り直した旅客機DC-4は軍用輸送機へ

 さて、ダグラス社はDC-4Eの失敗から改めてDC-4の設計を堅実な方法でやり直し、機体もやや小型化したDC-4Aの開発に着手しますが、直後に第2次世界大戦が勃発します。1940(昭和15)年1月にはアメリカのエアライン会社から発注を受けるようになったものの、1941(昭和16)年12月に日本軍の真珠湾攻撃を受けアメリカも参戦、ダグラス社も旅客機の開発どころではなくなります。

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アメリカ陸軍航空軍のC-54輸送機(画像:アメリカ空軍)

 軍用機生産が忙しくなりDC-4Aの開発は遅延し、1942(昭和17)年2月14日に初飛行しますが、軍用が優先され陸軍航空軍向けのC-54「スカイマスター」、海軍向けのR5Dとして生産されるようになりました。

 床構造などが補強され、兵員にして50名、貨物にして14.5tを運ぶことができる本格的な軍用輸送機仕様となったC-54が配備されたのは、戦争中盤の1943(昭和18)年2月からでした。

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サイパン島のアスリート飛行場に集結したB-29爆撃機。(画像:アメリカ陸軍)。

 やがて、アメリカ軍はサイパン諸島を基地としてB-29爆撃機で日本爆撃を始めますが、おもにエンジンにトラブルが多発したB-29を何の工業的基盤のない南方の島しょで運用するのは大変でした。

 アメリカ本土西海岸からは約9000kmも離れていますし、東京との往復作戦距離は約5000kmに及びます。そしてB-29は100機単位で運用され、そのエンジンからビス1本に至るまで、アメリカ本土から運ぶ必要があったのです。製造されたB-29が本土からサイパン島へ配備される際には、爆弾倉に予備エンジン1基のほか、予備パーツを満載して飛んだほどです。

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露天で満足な揚重機材も無いサイパン島の飛行場でエンジン交換をするB-29(画像:アメリカ空軍)。

 このアメリカ本土とサイパン諸島の補給線を支えたのが、C-54です。

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