米軍は捉えていた!? 真珠湾に迫る日本軍編隊を見逃がした知られざるヒューマンエラーとは

機密ゆえに伝えられなかった重要情報

 2人は、ほぼ北という探知方位と、Aスコープに映る画像が大編隊を示すきわめて大きなものだったので、はじめはレーダーの故障ではないかと考えました。

 そこで、アンテナの向きを変えたり出力を調整したりと色々いじくってみたものの、画像は変わりません。かくして2人は、ようやくレーダーが本物の航空機の編隊を捉えたと判断しました。そしてエリオットが、画像が示された位置と時間を地図上に細かくプロットしていきます。

 とうぜん2人は、上級本部であるフォート・シャフターの陸軍防空情報センターへも、有線電話で一報を入れます。しかし、あいにくこの日は日曜だったため、当番兵しかおらず、とりあえず彼に航空機編隊の接近を伝えました。

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SCR-270移動式対空レーダーの全景(画像:アメリカ陸軍)。

 するとその10数分後、当番兵から伝言を聞いた当直士官のカーミット・タイラー中尉が、オパナ・ポイントの2人に折り返し電話を入れてきました。そして、なんとその画像は心配する必要はないと話します。結果、以降のこの編隊の動きは放置されてしまいました。

 タイラー中尉は当直士官なので、アメリカ本土からB-17の大編隊がオアフ島に飛来することを事前に知っており、オパナ・ポイントのレーダー探知は、このB-17編隊だと判断したのです。しかし秘密保持の観点から、新規のB-17部隊がハワイに駐留するようになることを、まだこの時点で下級兵には知らせられないので、単に「心配ない」としか言えませんでした。

【レーダープロットも】記録に残る旧日本軍パールハーバー攻撃隊の軌跡

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1件のコメント

  1. ベェノナと2007年にNSA(米国国家安全保障局)が公開した米国の公文書米国陸軍戦略研究所レポート「「What Every Cryptologist Should Know about Pearl Harbor」(すべての暗号学者がパールハーバーについて知っておくべきこと)を相互に検証してもらえばわかります。

    これによると、1939年に米国陸軍が日本の外務省が使用していた正式名称「暗号機B型」(通称 : 九七式欧文印字機)を解読して「パープル」とコードネームを命名。
    1940年初頭にドイツから米国の暗号解読をしている時に、「日本の暗号によるとという言葉が出ている。」と米国が日本の暗号が解読されていることを突き止めて日本に報告している。

    1941年1月27日
    ・駐日ペルー公使から駐日米国大使館員であるクロッカー一等書記官に、「日本と米国の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃が日本の軍部によって計画されている。」との情報を受け日本国内の協力者から情報を確認、クルー駐日米国大使自身がワシントンに打電し、真珠湾攻撃の情報が米国本土に伝えられる。

    1941年2月3日
    ルーズベルトは大統領令で、国務省内に戦後の日本占領政策をどのように処理するかを研究する特別研究部を発足させ、開戦前から戦後の日本占領政策の策定を指示していた。

    1941年3月
    吉川が真珠湾の艦船の停泊位置および陸軍飛行場での航空機などを調べた暗号文22通の打電を確認。
    解読した結果、真珠湾が日本の攻撃対象になっていることが確実となる。

    1941年9月
    ワシントンD.CでフーバーFBI長官が、極東の秘密情報部員および香港かシンガポールのイギリス人ビジネスマンから「日本がパールハーバーを攻撃する予定である。」との報告を受ける。

    1941年10月
    暗号解読員であるホーマー・キスナー太平洋艦隊通信解析主任が日本海軍の暗号を解読。
    “親鶏”を「日本海軍第三艦隊」
    “子鶏”を「侵攻部隊」
    であることを突き止める。
    真珠湾攻撃直前には無線封止を命ぜられていたが、実際には悪天候下で位置確認などのために無線発信を行っていた。
    真珠湾に向かう連合艦隊間の通信129件を米国が傍受、日本艦隊の位置を把握していた。

    1941年11月26日
    英国が海軍暗号JN-25の解読し、英国のチャーチルがルーズベルトに真珠湾攻撃の可能性を伝える。

    1941年11月30日
    ハワイ島の地元新聞「ヒロ・トリビューン・ヘラルド」は一面で、「日本、来週末にも攻撃の可能性がある。」と掲載!
    この時点で日本軍の真珠湾攻撃の可能性があるとの軍事情報が民間の記者に流されていたことが分かる。

    1941年12月7日
    日本からワシントン大使館宛の暗号を解読したところ、日本の大使に「最後通牒」を午後1時に手渡すよう命じられたことを掴む。
    最後通牒の午後1時とは「ワシントン時間の午後1時」で、「パールハーバーの午前7時」であることを割り出した。
    日本の攻撃時間をルーズベルトに報告するが、ルーズベルトが日本軍の攻撃の6時間も前から知っていながら、なんの措置も取らなかった。
    これに対して通信解析班らはパールハーバーに警告が発せられるべきだと軍上層部に進言するが、スターク大将らは「戦争になるのを、ただ黙って静観していれば良いんだ。」と何も動かなかった。