米軍は捉えていた!? 真珠湾に迫る日本軍編隊を見逃がした知られざるヒューマンエラーとは

重なり合った歴史の“タラレバ”

 タイラー中尉から電話でそう伝えられた後も、2人はしばらくレーダー接触とプロットを続けました。しかし、探知目標までの距離が30kmよりも近くなると、オアフ島の山並みのせいでレーダー波がさえぎられ、索敵の継続が困難になります。そのため2人は日曜出勤だったこともあってSCR-270のスイッチを切り、車両で駐屯地へと帰ってしまいました。

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1941年12月8日、ハワイのヒッカム飛行場に胴体が折れた状態で横たわるアメリカ陸軍のB-17「フライングフォートレス」大型爆撃機(画像:アメリカ海軍)。

 しかし、2人が探知したこの編隊こそが、B-17編隊などではなく、淵田中佐が率いてきた旧日本海軍の攻撃隊だったのです。そのため、もし早めに日本による宣戦布告がなされており、アメリカ側も臨戦態勢にあれば、報告の結果は違っていたでしょう。

 もしくは、この日が日曜日ではなく平日で、フォート・シャフターの陸軍防空情報センターに数多くの幕僚が詰めていてレーダー探知情報に接していれば、ひょっとしたら怪しい編隊と判断されて、パールハーバーは事前にある程度の迎撃態勢を整えることができ、被害も史実より少なくなった可能性もあったかもしれません。

 アメリカにとっては最悪ともいうべき不運。日本にとってはきわめつけの幸運。これにより、旧日本海軍の空母攻撃隊は歴史上まれに見る戦果を挙げることになりました。

 まさしく運命の女神の気まぐれといえるようなハナシですが、これこそが“歴史”なのだといえるでしょう。

【了】

【レーダープロットも】記録に残る旧日本軍パールハーバー攻撃隊の軌跡

Writer: 白石 光(戦史研究家)

東京・御茶ノ水生まれ。陸・海・空すべての兵器や戦史を研究しており『PANZER』、『世界の艦船』、『ミリタリークラシックス』、『歴史群像』など軍事雑誌各誌の定期連載を持つほか著書多数。また各種軍事関連映画の公式プログラムへの執筆も数多く手掛ける。『第二次世界大戦映画DVDコレクション』総監修者。かつて観賞魚雑誌編集長や観賞魚専門学院校長も務め、その方面の著書も多数。

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1件のコメント

  1. ベェノナと2007年にNSA(米国国家安全保障局)が公開した米国の公文書米国陸軍戦略研究所レポート「「What Every Cryptologist Should Know about Pearl Harbor」(すべての暗号学者がパールハーバーについて知っておくべきこと)を相互に検証してもらえばわかります。

    これによると、1939年に米国陸軍が日本の外務省が使用していた正式名称「暗号機B型」(通称 : 九七式欧文印字機)を解読して「パープル」とコードネームを命名。
    1940年初頭にドイツから米国の暗号解読をしている時に、「日本の暗号によるとという言葉が出ている。」と米国が日本の暗号が解読されていることを突き止めて日本に報告している。

    1941年1月27日
    ・駐日ペルー公使から駐日米国大使館員であるクロッカー一等書記官に、「日本と米国の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃が日本の軍部によって計画されている。」との情報を受け日本国内の協力者から情報を確認、クルー駐日米国大使自身がワシントンに打電し、真珠湾攻撃の情報が米国本土に伝えられる。

    1941年2月3日
    ルーズベルトは大統領令で、国務省内に戦後の日本占領政策をどのように処理するかを研究する特別研究部を発足させ、開戦前から戦後の日本占領政策の策定を指示していた。

    1941年3月
    吉川が真珠湾の艦船の停泊位置および陸軍飛行場での航空機などを調べた暗号文22通の打電を確認。
    解読した結果、真珠湾が日本の攻撃対象になっていることが確実となる。

    1941年9月
    ワシントンD.CでフーバーFBI長官が、極東の秘密情報部員および香港かシンガポールのイギリス人ビジネスマンから「日本がパールハーバーを攻撃する予定である。」との報告を受ける。

    1941年10月
    暗号解読員であるホーマー・キスナー太平洋艦隊通信解析主任が日本海軍の暗号を解読。
    “親鶏”を「日本海軍第三艦隊」
    “子鶏”を「侵攻部隊」
    であることを突き止める。
    真珠湾攻撃直前には無線封止を命ぜられていたが、実際には悪天候下で位置確認などのために無線発信を行っていた。
    真珠湾に向かう連合艦隊間の通信129件を米国が傍受、日本艦隊の位置を把握していた。

    1941年11月26日
    英国が海軍暗号JN-25の解読し、英国のチャーチルがルーズベルトに真珠湾攻撃の可能性を伝える。

    1941年11月30日
    ハワイ島の地元新聞「ヒロ・トリビューン・ヘラルド」は一面で、「日本、来週末にも攻撃の可能性がある。」と掲載!
    この時点で日本軍の真珠湾攻撃の可能性があるとの軍事情報が民間の記者に流されていたことが分かる。

    1941年12月7日
    日本からワシントン大使館宛の暗号を解読したところ、日本の大使に「最後通牒」を午後1時に手渡すよう命じられたことを掴む。
    最後通牒の午後1時とは「ワシントン時間の午後1時」で、「パールハーバーの午前7時」であることを割り出した。
    日本の攻撃時間をルーズベルトに報告するが、ルーズベルトが日本軍の攻撃の6時間も前から知っていながら、なんの措置も取らなかった。
    これに対して通信解析班らはパールハーバーに警告が発せられるべきだと軍上層部に進言するが、スターク大将らは「戦争になるのを、ただ黙って静観していれば良いんだ。」と何も動かなかった。