米軍は捉えていた!? 真珠湾に迫る日本軍編隊を見逃がした知られざるヒューマンエラーとは

最新兵器レーダーが日本軍大編隊をキャッチ

 当時、長距離飛行でアメリカ本土から軍用機がハワイにやってくる場合、軍の要請を受けたKGMBがその強力なラジオ電波発信機を用いて、誘導電波の代わりに音楽などを1日中流し続けることがあり、この放送もそれを目的としたものでした。

 同じ頃、オアフ島北端に位置するオパナ・ポイントのアメリカ陸軍仮設レーダー・ステーションに置かれたSCR-270移動式対空レーダーが、接近する日本軍攻撃隊を捉えていました。陸軍は重要なオアフ島を防衛するために、1941(昭和16)年6月にSCR-270を6基(諸説あり)持ち込んでおり、これはそのうちの1基でした。

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ハワイのオパナ・ポイントに設置された陸軍仮設レーダー・ステーション(画像:アメリカ陸軍)。

 SCR-270は波長2.8mのメートル波を使って、約240km先を飛行している航空機を捉えることができました。なお、このSCR-270の1運用単位は、レーダー操作室車、電源車、アンテナ本体輸送車、アンテナ塔積載車の合計4両からなる構成です。

 SCR-270のレーダー画像表示器は、映画などでよく見かけるいわゆる円形の「PPIスコープ」とよばれるものではなく、「Aスコープ」といわれる表示方式でした。これはレーダーで捕捉した航空機(目標)が、スコープ上に山型の波形で表示されるものでした。

 この日、日本軍攻撃隊を探知したのは、ジョセフ・ロッカードとジョージ・エリオットという2人の1等兵。先輩であるロッカードが、エリオットの訓練教育をサポートしている最中に事は起きました。

【レーダープロットも】記録に残る旧日本軍パールハーバー攻撃隊の軌跡

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1件のコメント

  1. ベェノナと2007年にNSA(米国国家安全保障局)が公開した米国の公文書米国陸軍戦略研究所レポート「「What Every Cryptologist Should Know about Pearl Harbor」(すべての暗号学者がパールハーバーについて知っておくべきこと)を相互に検証してもらえばわかります。

    これによると、1939年に米国陸軍が日本の外務省が使用していた正式名称「暗号機B型」(通称 : 九七式欧文印字機)を解読して「パープル」とコードネームを命名。
    1940年初頭にドイツから米国の暗号解読をしている時に、「日本の暗号によるとという言葉が出ている。」と米国が日本の暗号が解読されていることを突き止めて日本に報告している。

    1941年1月27日
    ・駐日ペルー公使から駐日米国大使館員であるクロッカー一等書記官に、「日本と米国の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃が日本の軍部によって計画されている。」との情報を受け日本国内の協力者から情報を確認、クルー駐日米国大使自身がワシントンに打電し、真珠湾攻撃の情報が米国本土に伝えられる。

    1941年2月3日
    ルーズベルトは大統領令で、国務省内に戦後の日本占領政策をどのように処理するかを研究する特別研究部を発足させ、開戦前から戦後の日本占領政策の策定を指示していた。

    1941年3月
    吉川が真珠湾の艦船の停泊位置および陸軍飛行場での航空機などを調べた暗号文22通の打電を確認。
    解読した結果、真珠湾が日本の攻撃対象になっていることが確実となる。

    1941年9月
    ワシントンD.CでフーバーFBI長官が、極東の秘密情報部員および香港かシンガポールのイギリス人ビジネスマンから「日本がパールハーバーを攻撃する予定である。」との報告を受ける。

    1941年10月
    暗号解読員であるホーマー・キスナー太平洋艦隊通信解析主任が日本海軍の暗号を解読。
    “親鶏”を「日本海軍第三艦隊」
    “子鶏”を「侵攻部隊」
    であることを突き止める。
    真珠湾攻撃直前には無線封止を命ぜられていたが、実際には悪天候下で位置確認などのために無線発信を行っていた。
    真珠湾に向かう連合艦隊間の通信129件を米国が傍受、日本艦隊の位置を把握していた。

    1941年11月26日
    英国が海軍暗号JN-25の解読し、英国のチャーチルがルーズベルトに真珠湾攻撃の可能性を伝える。

    1941年11月30日
    ハワイ島の地元新聞「ヒロ・トリビューン・ヘラルド」は一面で、「日本、来週末にも攻撃の可能性がある。」と掲載!
    この時点で日本軍の真珠湾攻撃の可能性があるとの軍事情報が民間の記者に流されていたことが分かる。

    1941年12月7日
    日本からワシントン大使館宛の暗号を解読したところ、日本の大使に「最後通牒」を午後1時に手渡すよう命じられたことを掴む。
    最後通牒の午後1時とは「ワシントン時間の午後1時」で、「パールハーバーの午前7時」であることを割り出した。
    日本の攻撃時間をルーズベルトに報告するが、ルーズベルトが日本軍の攻撃の6時間も前から知っていながら、なんの措置も取らなかった。
    これに対して通信解析班らはパールハーバーに警告が発せられるべきだと軍上層部に進言するが、スターク大将らは「戦争になるのを、ただ黙って静観していれば良いんだ。」と何も動かなかった。