戦前の幻「第二山手線」の痕跡が“明大前だけ”に残っているワケ 井の頭線の妙に長い橋の秘密
なぜ明大前駅付近にだけ遺構があるのか
井の頭線の明大前駅ホームにもその痕跡を見ることができます。同ホームは掘割(切通し)の中に設けられていますが、掘割の幅に注目してみましょう。現在は上下線のホームとも片側使用の2面2線ですが、各ホームの壁側(切通し側)に店や空き地などのスペースが見てとれます。実は、井の頭線と東京山手急行線による2面4線のホームにできるよう、掘割も幅広くつくられているのです。
国立公文書館で閲覧した1931(昭和6)年頃の東京山手急行電鉄(当時の名称は東京郊外鉄道)の予定路線地図によれば、明大前駅から渋谷方面へふたつ目の踏切付近まで同線は井の頭線と並走し、そこで小田急線の梅ヶ丘駅方面へと分かれていきます。現在、明大前駅から井の頭線の渋谷寄りはこの踏切付近まで、線路の両側にもう1本ずつの線路を敷けるスペースが続いていますが、それも東京山手急行線のために、用地買収した部分などです。
このような用地が確保された区間はあるものの、実際にほぼ完成まで漕ぎつけたのは、先述した人道橋だけのようです。なぜここだけ工事が行われ、結果として未成線の存在を今に伝えることになったのでしょうか。
この人道橋は不思議な構造で、人道部分は幅2mほどと狭いものの、その脇に、直径が大人の背丈ほどある太い鉄管が通っています。秘密はこの鉄管にあるようです。中にはかつて玉川上水の水が流されていました。
玉川上水は江戸時代前期の1653年、江戸の町が人口増加により水不足となったためにつくられた上水道です。奥多摩の入口にあたる羽村で多摩川から水を取り入れ、江戸市中の四谷大木戸まで43kmにわたって水路を開削して建設されました。1898(明治31)年、現在の都庁などがある地に淀橋浄水場が竣工してからは、そこへの水を供給する水路となりました。井の頭線が玉川上水と交差するこの地点は、同線が切通しで進んでいるため、線路の上で立体交差させ、鉄管を橋で通すことにしたものです。
コメント