日本の海にウヨウヨ…“機雷”と戦った旧海軍の戦後 海自のルーツ「掃海」のリアル そこに『ゴジラ』!?
なぜオンボロ木造船が掃海艇に最適なの?
この係維機雷に関しては1946年8月に掃海が完了したものの、ワイヤーが腐食したものが浮流機雷となって海面を漂うようになったことで、陸上にも危険を及ぼすようになります。
これに対してアメリカ軍が敷設した感応機雷は海底に設置されるもので、鋼船が上を通ると作動する磁気機雷、推進器の音に反応する音響機雷、航行する船による水圧の変化と磁気に感応する磁気水圧複合機雷などがありました。
当時、最先端の兵器であったこれら感応機雷の対処に、旧日本海軍は後れをとり当初こそ大きな被害を出したものの、2隻の艦艇が対となって網のような構造の電気ケーブルを曳航し、ケーブル部分に強力な電流を流すことで処分を行う方法を、対感応機雷用として考案します。ただ、この方法には鋼船は使えないため、木造の哨戒特務艇や駆潜特務艇を投入しました。
結果、終戦後もこうした木造船が掃海艇として多用されることになったのです。
なお、掃海作業が終了したかを確認するには、実際に海面を航行してみるのが一番確実でした。そのため、「試行船」という掃海海面に有人で最初に進入する船が用意されます。
試行船は複数用意されたようですが、同船には当初、民間船員が乗り込んだそうです。その点、旧海軍軍人がそのまま残った駆特などとは違うといえるでしょう。しかし、募集時に約束した慰労金1万円の支払いを巡りトラブルが起きたことで、2隻の試行船から乗員がいなくなってしまう事態が起きました。その結果試行船にも旧海軍軍人が乗り組むことになったといわれています。
機雷を取り除き、安全な航路を作る航路啓開業務は、空母「葛城」のような大型艦を運用する復員輸送と並んで多くの旧海軍軍人の力を必要としていました。そのため、頭数については復員した旧海軍軍人に充員召集をかけてかき集めるとともに、危険が伴う掃海任務に就いてもらう以上、十分な給与や手当を用意したそうです。
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