なぜ「人間誘導のミサイル」開発に至ったのか 埼玉に残る特攻兵器「桜花」完全レストアされた姿
悲惨な歴史を伝える「生き証人」
「桜花」の開発と並行して、運用を担うための実戦部隊として第七二一海軍航空隊、通称『神雷部隊』(岡村基春司令)も1944(昭和19)年10月に新編され、ベテランの飛行士らによる訓練も始まりました。
他方で同月下旬には、フィリピン戦で爆弾を搭載した零戦による特攻隊の初出撃・初戦果も記録。そして、部隊新編から5か月後の1945(昭和20)年3月21日、ついに第一回神雷桜花特別攻撃隊が沖縄を攻撃中のアメリカ海軍機動部隊に向けて出撃します。
しかし、このときは敵艦のレーダーに捕捉されて戦闘機による迎撃を受けたため、目標にたどりつく前に一式陸攻18機全機が撃墜されてしまい、積まれていた「桜花」も運命を共にしています。
その後、少数機による分散特攻へと戦術を切り替え、4月12日の第三回神雷桜花特別攻撃隊でようやく米駆逐艦「マナート・L・エベール」を轟沈させる戦果を挙げたものの、一番の目標であった敵空母に損傷を与えられず終わっており、沖縄戦での1か月間で挙げた戦果は、撃沈した駆逐艦1隻、大破は同3隻(うち2隻は使用不能で除籍処分)、ほか3隻に損傷を与えただけでした。
ただ、アメリカ側からすると「桜花」はやはり脅威だったようです。同機は小型のため、母機(一式陸攻)から発進してしまうとレーダーで捕えにくく、しかも急降下時の最高速度は約940km/hと速過ぎることから、そうなってしまうと撃墜が困難だと感じていた模様です。
だからか、沖縄で鹵獲(ろかく)された機体は直ちに本国へ送られて綿密な調査が行われています。こういったイメージがあったからなのか、終戦後アメリカ軍に接収されて「ジョンソン基地」という名で在日米空軍の拠点となっていた入間基地に、あえて「桜花」が展示機として残されていたそうです。
なお、当時は本部庁舎前の中庭に足場や土台が設置され、その上に飛行状態で展示されていました。
こうして、元日本陸軍の飛行場でありながら展示されていた海軍機「桜花」ですが、基地の返還と共に航空自衛隊へと移管されたことで、改めてレストアされることになりました。しかも、2012年(平成24)3月の修武台記念館のリニューアル後は、屋内での展示へと変更され、いまに至っています。
2024年5月現在、靖国神社の遊就館でも「桜花」は展示されていますが、こちらは精密に作られたレプリカです。そのため、国内で見られる実物の「桜花」は、例年8月のみ一般公開される河口湖飛行館と、入間基地の修武台記念館の機体だけになります。
戦争の悲惨さを後世に語り継ぐには適任といえる入間基地の「桜花」。貴重な航空遺産でもあるため、見学するには基地公式WEBサイトから事前登録する必要があるものの、ぜひとも見学会に申し込んで直接その目で見てみることをお薦めします。きっと何かしら感じるものがあることでしょう。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
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