赤字ローカル線に“起死回生の大型投資!”→あっさり「廃線」なぜ!? 熱狂の時代の跡を歩く
赤字ローカル線のてこ入れ策としてよく浮上するアイデアが観光列車の運行です。ところが導入しても鳴かず飛ばずで、2年あまりで廃線になった鉄道もあります。観光列車は決して“万能薬”ではないと語りかけるような遺構を訪ねました。
なぜ観光列車は失敗したのか
ところが、東下津井駅跡で駅名標を眺めて絶句しました。終点の下津井駅跡まで2.1kmあり、「風の道」の“駅間距離”で最長なのです。

脳裏をかすめたのが、両駅間にある山あいの雄大なカーブを走る、「湘南顔」の2枚窓が特徴のモハ1001の写真でした。この車両は1983年、車体へ自由に落書きができる「赤いクレパス号」となり、当時の筆者はぶっ飛んだ企画に驚嘆しました。今思うと利用者が低迷し、話題を集めるための窮余の策だったのかもしれません。
児島駅跡から歩いて1時間で着いた旧下津井駅には、実物のモハ1001が止まっていました。「下津井みなと電車保存会」の復元作業により、かつて落書きだらけだった外観は白と赤の美しいツートンカラーがよみがえっていました。
そこには、瀬戸大橋開通にあやかろうと投入したものの、期待外れに終わった赤色のメリーベル号も置かれていました。オープンデッキの座席は瀬戸大橋側を向いて腰かけられるようにしたメリーベル号が運行を始めたにもかかわらず、下津井電鉄の1988年度の輸送人員は約29万8000人と、ピークの10分の1にとどまりました。
地元関係者は失敗の理由をこう解説します。「下津井電鉄は瀬戸大橋の観光ブームにあやかろうと観光列車をわざわざ新造したが、旅行者の多くは瀬戸大橋を渡って四国を観光することが目当てだったためほとんど恩恵を受けなかった」
存亡の機に追い込まれた下津井電鉄の巻き返しの切り札の役割を期待されたものの、当てが外れてしまったメリーベル号。2年あまりの短命に終わったその存在は、狂乱のバブル時代に踊らされた日本人と軌を一にしていたと言えそうです。
Writer: 大塚圭一郎(共同通信社経済部次長・鉄旅オブザイヤー審査員)
1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学フランス語学科卒、共同通信社に入社。ニューヨーク支局特派員、ワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。「乗りもの」ならば国内外のあらゆるものに関心を持つ。VIA鉄道カナダの愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員。
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