日本版「恐怖の彗星」危険なロケット戦闘機を陸海軍共同で開発した理由とは? 80年前に“悲劇の初飛行”を行った機体

今から80年前の1945(昭和20)年7月7日。第二次世界大戦での敗色濃厚な日本で、三菱航空機(現・三菱重工業)が開発した試作ロケット推進戦闘機「秋水」が初飛行しました。

飛んだには飛んだが…

 ドイツより技術提供を受けてから約1年。追浜飛行場(神奈川県横須賀市)で「秋水」の試験飛行が行われました。しかしエンジンの不調に見舞われ、離陸したのは予定時刻から2時間後のことでした。

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損傷した「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)

 滑走距離は200mあまり。「秋水」は離陸し、初飛行に成功しました。ただ、高度350mほどでエンジンが停止。再起動もむなしく、「秋水」は飛行場西端に不時着したのです。機体は大破し搭乗員は重傷を負い、翌日に亡くなっています。

 ちなみに、同機には着陸装置(ランディングギア)が装備されていません。元となった「コメート」も同様ですが、離陸時に装備していた車輪を落としてし飛行体制に入ります。少ない燃料を節約する必要があるからです。着陸は機体下部のソリのようになった胴体で滑るように着陸させるという極めて危険な方法で、常時胴体着陸をする必要がありました。これらの問題や、前述した燃料の関係もあり「コメート」は味方のパイロットや整備員から「恐怖の彗星」と呼ばれた経緯がありますが、同機を元した「秋水」も軍用機として運用するにはかなり危険な機体であることには変わりはありませんでした。

 しかし、この失敗で軍は諦めず、2号機以降を製作しようとしますが、機体は造れても肝心なエンジンを事故で失ってしまいます。結局、日本は8月15日に終戦を迎え、飛行した「秋水」はただ1機にとどまりました。

 終戦までに完成していた機体は三菱航空機で4機、日本飛行機で3機の計7機でした。うち何機かは接収されアメリカ本土に送られ、調査に供されています。そして2023年現在、カリフォルニア州チノにあるプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に、世界で唯一となる「秋水」が保存・展示されています。

 ほかには、名古屋市港区の三菱重工大江工場内にある「大江時計台航空史料室」に、復元された機体が展示されています。

【写真】え、なにこれ!? 当時の色は試作機らしい派手さ!

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