終戦前日の米軍「群馬県伊勢崎市に爆弾落とす」なぜ? 100機近くのB-29が出向いた納得の理由とは
終戦前日にいくつかの都市でB-29による空襲が発生しました「伊勢崎空襲」もそのひとつです。
犠牲者が少なかった理由は市長の判断のほかにも
これには、5日前に行われた「前橋空襲」の情報を収集していた当時の板垣源四郎市長が、市民の生存率を高めるため、初期消火を行わず即時避難を指示したことが功を奏したことに加え、当日の無風状態も大きく影響しています。

この空襲では、駅周辺や北国民学校(現・北小学校)周辺の市街地はほぼ焼け野原となりましたが、表通りを挟んで反対側にあった伊勢崎神社などの建造物は戦前の姿のまま残りました。市史によると、焼失箇所は爆撃機編隊の間隔を示すように、3本の線状に分かれており、本来は風で延焼するはずが、ほとんど燃え広がらなかったことがうかがえます。アメリカ軍も同様の認識だったようで、目標に達していないと判断し追加爆撃を検討していたとも言われていますが、その前に終戦となりました。
なお、この周辺では、現在も立派な店舗を構える「親玉本店」のように、空襲で焼け出された後すぐに再建し、営業を再開した商店が多く存在します。1946年9月に戦災復興計画が始まった直後には、すでに復興住宅や商店がほぼ完成しており、道路拡張などを巡って住民との対立も発生し、事業は一時棚上げとなっていたようです。
その影響なのか、2010年代から始まった伊勢崎駅の高架化事業や、それに伴う駅前広場・道路の整備が行われる以前は、戦災バラックや復興住宅を元とした店舗や家屋もわずかに残っていたそうです。
ちなみに、親玉本店の店主・根立さんの一族のルーツは埼玉県深谷市にあり、親戚には、かつて1万円札の肖像となった渋沢栄一の運転手を務めていた人物もいたとのことです。その縁から、渋沢栄一ゆかりの品々を東京から伊勢崎の店に疎開させていたそうですが、東京の家は焼け残り、伊勢崎の家が全焼してしまったため、ほとんどの品は失われてしまいました。
店内には、数少ない現存品のひとつとして、渋沢栄一の直筆による「徳不孤必有隣」と書かれた書が展示されています。
Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)
ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。
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