「クネクネ新京成」はどこを目指していたのか? 地形図から読む「蛇行の意図」と直線15kmを倍増させた軍事的事情
2025年4月に親会社へ吸収合併された新京成電鉄。そのルーツは、旧日本陸軍の鉄道連隊が敷設した演習線にありました。大きく蛇行したルートには、軍事的な理由が隠されていました。
考えられる松戸線「蛇行ルート」の理由
日本軍は日露戦争前後にドイツからレール約200km、機関車約100両、貨車約500両の軽便鉄道資材を輸入していたため、1913(大正2)年に戦時の急速敷設を想定した「軽便鉄道敷設大演習」を実施し、四街道~三里塚(成田)間約50kmに軽便鉄道を敷設しました。
ドイツの軍用軽便鉄道システムは、長さ約5mのレールと鉄製まくら木を組み合わせた梯子状の「軌框(ききょう)」を展開しながら敷設する仕組みで、熟練者であれば5分程度で150mの敷設が可能だったといいます。
そして1918(大正7)年、津田沼の鉄道連隊第三大隊が「鉄道第二連隊」として昇格・独立することになり、津田沼~松戸間に新たな演習線「松戸線」が建設されることになりました。1927(昭和2)年に着工し、1929(昭和4)年には鎌ヶ谷付近まで、最終的に1932(昭和7)年頃に松戸まで全通。これが松戸線の前身です。
松戸線が大きく蛇行するルートで敷設されたのには、いくつかの理由が考えられます。一つは部隊運用の問題です。日本軍は4個師団を維持するために必要な物資運搬を基準に、軍用軽便鉄道は最大180km、4個大隊で運行する想定でした。
1個大隊の担当は45kmなので、演習線も同等の距離を確保する必要があります。津田沼~松戸間は直線距離約15km、鎌ヶ谷経由でも約20kmですが、大きなカーブを設けることで28.5kmを確保し、津田沼~千葉間計16.7kmと合わせて45kmを超えています。
もう一つは運搬手段としての要請です。沿線には松戸の陸軍工兵学校、薬園台の陸軍騎兵学校、八柱や矢切に演習場があるなど、多数の陸軍施設があり、工兵学校~八柱付近、工兵学校~矢切付近は工兵学校が建設しました。演習線であると同時に資材や人員を運搬する役割がありました。
最後に地形との関係です。戦場における鉄道敷設は短期間で工事を行うため、トンネルや長大橋梁など大規模な土木工事を避けます。
地形図と照らし合わせると、松戸線は標高20m程度の下総台地を、崖線を迂回しながら走っていることが分かります。逆に二和向台~初富間は現在線から南に約1.5km迂回して、二和川の谷を越えていますが、これは橋梁設置の訓練を行うために選定されたルートという見方もあります。
また、陸軍施設は広い平地に設置されるため、第2の理由を満たそうとすれば自然と平地をつないで敷設されるというわけです。戦前は軍用地と田畑が広がるばかりだった平地は戦後、格好の住宅地となり、新京成の発展を支えました。松戸線の線路は大きくカーブしていても、芯はまっすぐ変わらないのです。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx





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