西武も乗り入れるはずだった東京の「多摩ニュータウン」 幻に終わった原因は

京王・小田急と西武、明暗分けた理由は?

 3社の計画が城山方面を終点としていたのは、多摩ニュータウンから西へ約10km進んだところに城山ダムが建設(1964年完成)されたため。このダムでできた人造湖(津久井湖)を観光開発して鉄道を整備すれば、ニュータウンの住民だけでなく観光客の利用も見込めると考えられたのです。

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西武多摩川線の延伸が実現していれば写真の西武101系電車が多摩ニュータウン内を走っていたかもしれない(2002年12月、草町義和撮影)。

 こうして多摩ニュータウンの鉄道整備は3社の構想が競合する形になりましたが、西武の構想はすぐに頓挫してしまいます。

 小田急と京王は自社の路線を延伸、あるいは分岐する路線を建設すれば、東京都心から多摩ニュータウンまで自社の路線内で直通列車を走らせることができます。これに対して西武多摩川線は、都心に至る西武の新宿線や池袋線とつながっておらず、武蔵境駅で国鉄の中央本線に乗り換えないと都心に出られません。

 当時の中央本線は、ラッシュ時の混雑が非常に激しいという難題を抱えていました。運輸経済研究センター(現在の運輸総合研究所)の『都市交通年報』などによると、1960年代前半の混雑率(快速)は最大280%台。これに多摩ニュータウンからの乗り換え客が加われば、混雑はさらに激しくなってしまいます。

 このため、西武は多摩ニュータウンへの乗り入れ計画を中止。小田急と京王の計画のみ具体化し、1975(昭和50)年までに小田急多摩線の新百合ヶ丘~小田急多摩センター間と京王相模原線の調布~京王多摩センター間が完成したのです。

 しかし、小田急と京王の計画も、地価の高騰や用地買収の難航などで順調には進みませんでした。しかも開業直後はニュータウンの入居者数が非常に少なく、鉄道の利用者も想定を大幅に下回っています。

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コメント

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3件のコメント

  1. もし、西武多摩川線が多摩センターまで延伸していたら武蔵境駅の利便性や南武線のアクセスは今以上に伸びていたと思う。
    武蔵境駅は調布よりよっぽど発展していた上、利用者もすごく増えていたと思う。
    是政から府中本町駅まで延伸していたら利便性更に良くなっていたと思います。

  2. 建設費は「全額、都と国が負担」した。
    この記事は間違い。
    京王が負担したのは、橋本まで全線開通した後建設された、多摩境駅のみ。
    小田急も同様に、はるひ野駅のみ。
    「ニュータウン法」により、「全額税金で建設」された。

  3. 小田急にまかせず、唐木田から橋本は市営鉄道にすればいい。
    そうすれば小田急は反対する理由がなくなる。
    相互乗り入れはできるはず。
    京成の住都公団線と同じ。