幻の東京五輪と豪華貨客船NYK三姉妹の憂鬱 新田丸、八幡丸、春日丸が臨んだ太平洋戦争

 こうして1938(昭和15)年5月9日、「新田丸」は起工しました。ところがその2か月後の7月15日に日本政府は、日中戦争などの情勢から「東京オリンピック」の開催権返上を決定します。期待の「NYK」豪華客船の前途に、暗雲が垂れ込めはじめます。

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「新田丸」のプロムナードデッキ(画像:日本郵船歴史博物館)。

 第一船「新田丸」は1940(昭和15)年3月23日に竣工、サンフランシスコ航路に就航しますが、7度の航海ののち1941(昭和16)年9月12日付で日本海軍に徴傭され、1942(昭和17)年11月25日、空母に改造完了し「冲鷹」と名乗ることになります。第二船「八幡丸」は1940(昭和15)年7月31日竣工、アメリカ西海岸との航路に就きますが、こちらも1941(昭和16)年11月22日付で海軍に徴傭され、翌年5月31日に改造完了、「雲鷹」となります。第三船「春日丸」は1940(昭和15)年9月19日に進水後、商業航路に就くことなく空母への改装工事に入り、1942(昭和17)年8月31日付で「大鷹」となります。3隻いずれも甲板に艦橋のない全通式平甲板の、のっぺりした外見となりました。

 平時には快速貨客船で、戦時には空母へ改装というのは、貧乏な日本にはよい考えのように見えたのですが、いざ改装してみると小さくて、客船としては快速でも空母としては鈍足で使いがたいことが判明します。そこで前線には出ず、おもに飛行機輸送に使われることになります。いきなり表舞台から降ろされたような扱いに見えますが、飛行機をそのまま運べる艦はとても重宝されました。

 飛べる飛行機を遅い船で運ぶのは一見、不合理に見えます。しかし自ら飛行して移動するには、燃料や整備などのコストが掛かります。また戦闘機などの単座機はひとりだけで航法計算をやらねばならず、何も目標のない海上では少しの計算ミスが行方不明につながります。実際、戦闘任務ではなく飛んでいただけで行方不明になった機は相当数に上るのです。当時、故障も含めると、飛ばしただけで3%から5%が損耗したと言われており、その数は馬鹿になりません。

 また船で輸送するといっても、貨物船ではバラバラに分解して積載することになり、現地で再び組み立てる手間が掛かりました。しかし空母ならほとんど完成形のまま輸送できます。加えて、目的地が近くなったら発艦して基地に飛ぶこともできるなど、多くのメリットがありました。1942(昭和17)年8月から翌年12月までの約1年半で、この3隻が南方へ輸送した陸海軍の飛行機は約2000機に上り、航空作戦に大きく寄与しました。

【写真】子ども向けも豪華、「八幡丸」の「一等子供室」 ほか

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