複雑な常磐線との二重区間 なぜ生まれたか 東京メトロ千代田線 輸送力増強の紆余曲折
千代田線でもあり常磐線でもある区間
千代田線と常磐線の接続駅は、路線が分岐する北千住駅にするのが自然な考え方ですが、千代田線の車両基地が綾瀬に置かれることから、両路線の接続点は北千住のひとつ隣の綾瀬駅に決定します。車庫との接続駅は、運行状況に応じて臨機応変に車両の入出庫をする必要があるため、営団地下鉄としても、接続駅をずらしてまで自社で管理したかったのでしょう。
とはいえ、元々常磐線だった北千住~綾瀬間を千代田線に変えるわけにはいきません。そこで同区間は、千代田線であり常磐線でもあるという扱いにして、この区間を通過する利用者が余計な運賃を払わなくてもよい特例を定めました。
こうして1971(昭和46)年、いよいよ千代田線と常磐線の相互直通運転が始まります。しかし、利用者の行動パターンはすぐには変わりません。これまで日暮里・上野方面に一本で行くことができた綾瀬、亀有、金町の各駅は、千代田線に直通する各駅停車のみが停車。上野方面に行く場合は、北千住で乗り換えるか、千代田線の運賃を払って西日暮里で乗り換えなくてはならなくなったため、一部の利用者のあいだには反発もあったそうです。また、法律でストライキが制限されていた国鉄に対し、営団地下鉄は頻繁にストを行っていました。ストによる運休時、綾瀬~金町間の利用者は松戸まで戻って日暮里・上野方面に向かわなければならないといったこともあり、「迷惑乗り入れ」とまで言われたこともあったそうです。
2015年の「上野東京ライン」開通により、常磐線快速列車の東京・品川方面への直通運転が始まり、いまや快速列車と各駅停車は都心直通のライバル的な関係になりました。もしも当時から、このような直通運転が行われていれば、千代田線と常磐線の直通運転は違った形になっていたか、あるいはそもそも実現しなかったかもしれません。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
迷惑乗り入れは、国鉄の103系1000番台に対して言われていた言葉ですよ。
国鉄スト盛んな時代、国鉄が走ってくれなくて迷惑した、て話は色んな話で聞きましたよ。常磐緩行線が上野直通から千代田線乗り入れに変わった時期にぶつかったこともあって。
まぁ自分を育ててくれた親代わりの一人でもある常磐緩行線沿線に住んでた亡祖母(両親が育児放棄をした訳ではなくて両親が仕事忙しすぎて祖母に育児任せた時代がある)が国鉄関連会社(車内清掃会社。少し前なら東北新幹線車両折返しの清掃で称賛受けてた会社ですかね)勤務でしたが労働組合で先頭を走っていましたので(新聞配達が配達所近くなので朝4時に起きて朝刊読んでた)そういう意味で反論したくなりますが(苦笑)。
なお自分が大きくなると自分ひとりで動けるので自宅(大阪)から上野乗り換えや祖母が生きてる末期には京葉線経由で「営団地下鉄の料金払わず」で祖母宅行ってました。
こういう記事は経緯を示した地図があるとわかりやすいと思いました。
西日暮里と北千住の間については、JR東日本と東京メトロの間で、都営三田線とメトロ南北線との間で実施しているように、2重戸籍というか共用区間として営業し。JR東日本が第二種鉄道事業者として運営してはどうであろうか?
その方が利用者にとってもわかりやすいし、JR東日本がメトロに線路使用料を払うことになるが、この貸借はすでに都営とかの事例で実施済ですから、双方がやる気になれば可能だと思います。